若山牧水と栃木の歌碑
<牧水歌碑>
「鹿のゐていまもなくてふ下野の
なきむし山の峰のまどかさ 牧水 」
裏面記載
「牧水歌碑に寄す
鳴虫山に雲がかかると雨が降るという
この碑の正面はるか前方、最も高いまるい峰が鳴虫山です。
若山牧水先生は大正十一年十月二十八日群馬県より金精峠を越えて日光町に足跡を印ました。
湯元に一泊、二十九日中禅寺一泊、三十日には馬返より電車に乗り
窓から鳴虫山を眺め鹿の話など聞きながら日光町板挽町(現日光市匠町)の友人斎藤氏宅に到り二泊
十一月一日宇都宮市に向って出発されました。
その間数首の秀歌を詠まれ その中の一首がこの碑の歌です。
自然を愛する心を養うよすがにもと先生自筆のまま石に刻み、鳴虫山を望むこの地に歌碑を建立しました。
昭和四十八年七月吉祥 日光市清滝 星野利一」
<焼加羅の碑>
「焼加羅の碑
「焼加羅」とは、市内小来川滝ケ原産の名馬の名。
馬の主人、塀定良が、30歳で死んだ愛馬への惜別の情を、漢文に託して刻んだ碑。
梶定良は、慶長17年(一六ーニ年)伊勢の生まれ。
3代将軍徳川家光の忠臣で、家光没後、47年間家光廟大猷院定番を務めた。
毎日愛馬で通る姿は、町民から梶様といわれしたわれた。元禄11年(一六九八年)死去。
碑は、干時延宝三乙卯年二月九日(一六七五年)梶定良による建立。
定良は、このほか史跡探勝路途中に、神馬の碑を建てている。
日光文学碑散策路 昭和六十一年設定 日光市」
<花石神社>
釜川にかかる御橋(みはし)の下流に牧水亭という四阿があり、牧水の歌碑があります。
「まちなかの 小橋のほとり ひややけき
風流れゐて さくら散るなり 牧水 」
説明板より
「若山牧水の歌碑
旅と酒を愛した歌人、若山牧水は大正九年四月十九日、
宇都宮で開かれた「下野歌人会」に出席、若い県内歌人を指導した。
歌会に先だち、牧水はバンバの南、釜川にかかる「御橋」の傍の桜並木と、
二荒山神社の表参道右手の桜を素材に、
まちなかの小橋のほとりひややけき風流れゐてさくら散るなり
ひとしきり散りての後をしづもりてうららけきかも遠き桜は
と、詠んだ。
この二首は歌集「くろ土」に「宇都宮市にて」と詞書がついて収録されている。
若山牧水は明治十八年、宮崎県に生まれた。尾上柴舟に師事短歌雑誌「創作」を主宰、
数多くの後進を育て、明治、大正の歌壇に大きな足跡を残した。
この歌碑は、宇都宮市が釜川の河川改修を記念し、ゆかりの地に建てた。 渋谷行雄 識」
<二荒山神社>
<牧水歌碑>
牧水歌碑は、案内板に記載の場所にはなく、鐘楼脇に移動しています。
「かんがへてのみはじめたる一合の
二合のさけの夏のゆふぐれ 牧水 」
「昭和五十七年三月廿参日
「牧水」 英宗和尚(暮人)
短歌恩師ナルヲ以ッテ、靖宗建之」
<石川暮人 歌碑>
「とこしへにたのみがたなき愛染の わが目のあたり白菊の花 暮人」
「下野短歌創立主宰者 石川暮人」
上記の他に、歌碑が2つあります。
<今東光歌碑>
「日光は雨降るらしもとのぐもる下野の野に虹の立つ見ゆ 今東光」
「山は遠いし野原はひろし 水は流れる雲はゆく 雨情」
生前交遊により英宗和尚(暮人)が雨情の葬儀を執り行い、
謝礼の雨情の詠んだ歌の直筆の半切を碑にしたものです。
明保地区明るいまちづくり協議会のHPより
「興禅寺住職で歌人であった石川暮人氏が国民服にゲートル巻、防空頭巾姿で立会い、
お経を読んで出棺したという。」
<宇都宮城主墓所/奥平公供養塔>
8代城主宇都宮貞綱、9代城主宇都宮公綱(貞綱の息子)の墓所。
さらに、奥平家昌(母親は徳川家康の長女、亀姫)、息子の奥平忠昌の供養塔。
<宇都宮貞綱像>
<墓地>
墓地も見所満載です。
<禅雄大禅師頌徳碑>
禅雄大禅師頌徳碑と刻まれています。花園徳宗書とあります。
<興禅寺歴代和尚墓所>
当てずっぽうですが、英宗和尚ですかね。
<奥平内蔵允の墓>
江戸三大仇討の一つ「浄瑠璃坂の仇討」で有名な奥平内蔵允正輝夫妻の墓所があります。
<筑紫市兵衛之墓/寛永之馬術の名人>
寛永之馬術の名人、筑紫市兵衛之墓があります。
<河北禅林 神護山 興禅寺>
執権北条高時は、扁額「河北禅林」を墨書しています。
「興禅寺開山 真空妙応禅師 供養塔」があります。
若山牧水は、大正4年7月19日、大正11年11月3日、大正14年9月と、喜連川を三回訪れています。
「旅とふる郷(第三編 野州行)」(若山牧水 新潮社 大正5)中、野州行の中で、停車場、喜連川として、
大正4年訪問時について、喜連川の様子が記されています。
<双歌碑>
「時をおき老樹の雫おつるごと
しづけき酒は朝にこそあれ
高塩背山兄の許に宿れる翌朝 大正四年夏 牧水」
「かぜとよむ桜若葉のあひだより
のこれる花のちるはさびしき 背山」
千葉県野田のキッコーマンに、キッコーマンを讃えた珍しい句碑があります。
タイミングが悪いのか、いつも門は閉まっているのか、外から句碑の裏だけ確認。
「おのづからよろづの味のもととなる亀甲万のむらさきぞ濃き」
若山牧水真蹟 昭和2年6月12日、亀甲萬を讃えて詠む
昭和44(1969)年11月14日「若山牧水歌碑」完成