Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
  第1章 若山牧水と草履
  第2章 若山牧水と栃木の歌碑
  第3章 高塩背山

 若山牧水と草履
  明治18(1885)年8月24日 〜 昭和3(1928)年9月17日


<書斎での牧水>

 静岡県沼津の自宅の書斎では、若山牧水は、いたって普通のお姿です。
 足下も普通です。

   

    
 

<大正4(1925)年8月4日沼津牧水邸上棟式>

  
 

<草履履き上手の牧水>

 千本松原での写真ですが、自宅近くでこの格好。足下が草鞋です。

 「樹木とその葉 草鞋の話旅の話」(若山牧水 改造社 大正14)
  『 私は草鞋を愛する、あの、枯れた藁で、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
   あの草鞋を程よく兩足に穿きしめて大地の上に立つと、急に五軆の締まるのを感ずる。(略)
    机上の爲事に勞かれた時、世間のいざこざの煩はしさに耐へきれなくなつた時、
   私はよく用もないのに草鞋を穿いて見る。』

 「樹木とその葉 枯野の旅」(若山牧水 改造社 大正14)
  『 草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た
    履き上手の私と 出来のいいお前と 二人して越えて来た 山川のあとをしのぶに
    捨てられぬおもひもぞする なつかしきこれの草履よ 』

   
 

<旅にでている時の牧水>

 北海道夕張山、雪の中、青森五所川原、乗馬では足下がよくわかりません。

    
 

<中禅寺湖湖畔での牧水>

 日光中禅寺湖畔にて(大正11年10月)
 「牧水全集 第四巻」(若山牧水 改造社 昭和4(1929))より引用

 若山牧水は、米屋旅館に大正11(1922)年10月29日泊まっています。
 前日は、日光湯元で板屋旅館に泊まっています。
 与謝野晶子が訪れた温泉地と若山牧水が訪れた温泉地はけっこうかぶっています。

  中禅寺湖にて
   裏山に雪の来ぬると湖岸(うみぎし)の百木(もゝき)のもみぢ散り急ぐかも
   見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸の紅葉照るなり
   みづうみを囲める四方の山脈の黒木の森は冬さびにけり
   下照るや湖辺の道に竝木なす百木のもみぢ水にかがよひ
   舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸辺のもみぢ照り匂ふ日を
   みづうみの照り澄むけふの秋の空に散りて別るる白雲の見ゆ

 旅する若山牧水は、こんないでたちだったんですね。
 『四万温泉田村旅館で惨い待遇を受けた牧水』
  中禅寺湖に来る前、四万温泉田村旅館では、このいでたちでむごい待遇を受けます。
  本人は一泊のみの客だったからと理由を述べていますが、
  萩原朔太郎は、牧水の薄汚ない風采を理由にしています。
 『萩原朔太郎の父親に追い返された牧水』
  前橋の萩原朔太郎の家を訪れた時は、朔太郎不在で、薄汚ない風采から父親に追い返されています。

   

※備考
 若山牧水「みなかみ紀行」は、大正11(1922)4年10月14日に沼津の自宅を出発し、長野県岩村田(佐久ホテル泊)、小諸、星野温泉(泊)、嬬恋駅前の宿(泊)、草津温泉(一井旅館泊)、花敷温泉(関晴館泊)、暮坂峠、沢渡温泉(正栄館昼食)、四万温泉(田村旅館泊)、沼田(鳴滝泊)、法師温泉(長寿館泊)、笹の湯温泉(みなかみ町赤谷湖底ダム建設で沈む)、湯宿温泉(金田屋泊)、沼田(青地屋泊)、老神温泉(牧水苑泊)、丸沼(泊)、日光湯元温泉(板屋旅館泊)、中禅寺湖(米屋旅館泊)、日光(泊)、宇都宮(泊)、喜連川(泊)を経て、11月5日の夜、沼津の家に帰る24日間の旅をした時の紀行文です。
 牧水の足跡に沿って、多くの碑があります。
 ※花敷温泉関晴館本館の玄関にあった牧水の碑は、川沿いに移動していました。
  「ひと夜寝て わが立ち出づる 山蔭の 温泉の村に 雪降りにけり 牧水
             大正十一年十月十九日関晴館に泊る」
    

 若山牧水は、大正11(1922)年9月23日から畑毛温泉中華亭に3日ほど宿泊し、この後10月14日から「みなかみ紀行」の旅に出かけています。
 

<告別式/歌碑>

 牧水没後の「創作」追悼号に、萩原朔太郎が「追憶」を寄せています。

  「或る年の九月頃であつたが、僕が折あしく外出してゐるところへ飄然と牧水氏が訪ねて来て、
   玄関へ取次ぎを乞はれたのである。僕の父が出て来てみると、
   見知らぬ薄汚ない風采をした、一見乞食坊主のやうに見える男が―と父は後に僕に話した―
   横柄にかまへて「朔太郎君は居ますか」と言つたので、てつきり何かの不良記者かゆすりの類と考へ、
   散歩中の不在を幸にして、すげなく追ひ帰してしまつたさうだ。
   後に父からそれを聞いて、僕は風采から想像し、或はその乞食坊主が牧水氏でないかと思つた。
   それで父に向ひ、その人の名を聞いたかと問うたところ、聞いたと言ふ返事だつた。
   「若山とは言はなかつたでせうか?」
   「さう…たしかさうだつた。」
   そこで僕は吃驚してしまつた。
   「何故止めておかなかつたのです。あの人が有名な若山牧水ですよ。」
   「なに? あれが歌人の牧水か? あの有名な若山牧水だつたのか?」
   と言つて父もにはかに吃驚し、急に大騒ぎを始めたけれど、もはや牧水氏の行方はわからなかつた。

  「しかし父の誤解にも、一面無理のないところがあつた。
   なぜなら牧水氏は、この年の前後に上州の温泉四萬へ行き、やはり風采上から安く踏まれて、非常な惡い待遇を受けたさうだ。
   牧水氏はそれを憤慨して居たけれども、あの粗野な風采と態度を考へ、僕はユーモラスの微笑を禁じ得なかつた。」

 千本浜にある牧水の歌碑は、牧水没後の翌年、昭和4(1929)年に建てられた歌碑の第1号。
   
   
 

<与謝野晶子と対照的な牧水>

 法師温泉での晶子の宿入りの場面ですが、優雅にカゴに乗っています。
 若山牧水は、とにかく歩きましたが、晶子はカゴか馬車に乗って移動し歩きません。
 移動中はタバコを吸います。
 牧水は酒を歌い、晶子はタバコを歌う、これも対照的です。

   
 

<歩く文人>

 作品中から、とにかく歩いたとわかるのは、長塚節、田山花袋、正岡子規です。
 長塚節は、夜の尾頭峠から転落するし。
 田山花袋は、子ども連れて家族で温泉地へ行く場合は、乗り物に乗りますが、
 1人の場合は、とにかく歩いています。
 湯沢噴泉塔に行っている文人は、田山花袋ぐらいじゃないかな。
 若山牧水は、交通手段があれば利用し、馬返し駅で電車に乗って日光に向かいましたが、
 田山花袋は、自分のポリシーに沿って乗らないで歩いていますし、
 電車が通じたことを嘆いています。


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