源義経は、治承4(1180)年、藤原秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟等を従え鎌倉へ参じます。
この時通った道が義経街道と呼ばれ、多くの伝説が残されています。
その中のひとつが、白旗城です。
白旗城は、源頼義・義家父子が奥州の安倍頼時を討伐に出かける際、
この山に白幡をひるがえし、軍をそろえたことにはじまり、
源義経も、祖先の例にならってこの山に立ち寄ったといわれています。
奥州へ逃れる義経の伝承が那須町にあります。
源頼朝の追討をのがれ奥州へ下る義経、弁慶など12名の主従が亀山から阿久戸坪にたどりつき、
「阿久戸の岩屋」(岩穴)で一夜を明かしたといいます。
阿久戸の岩屋は、阿久戸(昔から秋元家が三軒)から東隣の蕪中方面への、
上半俵から流れてくる清水川の滝の脇にあります。
岩穴の縁で、義経と弁慶の霊を供養するため寒念仏が始められたといいます。
室町時代末期の寛正から元亀(1460-1570年)にかけて中断しますが、
江戸時代初期に再興し今に伝わっています。
栃木県の無形文化財となっています。
半俵公民館に栃木県及び那須町教育委員会の説明板があります。
下野新聞に案内板設置などの記事が出ていました。
「半俵地区地域づくり活性化委員会」が、
名跡「義経・弁慶の隠れ岩屋」周辺整備に取り組み、見学台や小さな橋などを整備。
田代地区の施工業者で木工細工の名人、常磐基之さん(58)に依頼し、
義経の浮き彫りを施した木製看板(高さ2・1m)も立てた。
案内板設置など、整備作業は秋ごろ完了予定。連絡先として「人見悠也 ○○○-○○○○」
<半俵の寒念仏>
<阿久戸の岩屋>