Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 泉漾太郎の民謡碑

  泉漾太郎
   明治41(1908)年1月5日〜平成8(1996)年10月23日

   

 塩原
  ○いろは紅葉
  ○悟り顔した大欅
  ○四方を見晴らし
  ○元湯で生まれた塩原高尾
  ○高尾の湯
  ○お湯泉さま
  ○小松屋商店
  ○片葉の芦
  ○尾頭峠
  ○日塩もみじライン
 
 茨城県茨木市磯原
  ○泉漾太郎 顕彰詩碑/雨情歌碑
  ○漾太郎 磯原小唄の碑
 
 関連:野口雨情


いろは紅葉】

<いろは紅葉は 塩原高尾 笑顔かよわす 紋所>

 妙雲寺の高尾太夫の墓碑の傍にあります。
 立入禁止のため、墓の前まで直接行くことはできません。カメラでズームして確認。
 高尾太夫については、こちらでまとめています

    

<塩原もの語り館レプリカ>

 塩原もの語り館のレプリカは至近まで近寄れます。
 塩原商工会のリンクが切れているサイトに高尾太夫の墓碑の正面からの画像があります。

   

悟り顔した大欅】

<照ろが曇ろが 妙雲寺の 庭で悟り顔した 大欅>

 妙雲寺の2本の大欅の間に建っています。
 立入禁止のため、カメラでズームして確認。 

   

四方を見晴らし】

<四方を見晴し 妙雲寺さんの 百の観音 十大願>

 妙雲寺の裏山、百観音の手前にあります。 

    

元湯で生まれた塩原高尾】

<元湯で生まれた 塩原高尾 紅葉も七滝 化粧石 漾太郎>

 塩原高尾は元湯で生まれました。
 この碑は、元湯の3軒の旅館のご主人が中心となって平成3年6月21日に建立されたもの。
 冬に訪れた時は、雪に埋もれていたので、雪をかき分け、ようやく撮影。

    

<幻のスポットとなりにけり>

 元泉館の高尾の湯(源泉名「高尾の湯」)の露天風呂からは赤川対岸に高尾太夫の詩碑が見えます。
 黄色丸印。
 塩原温泉古式湯まつり(2017)では、激しい雨が多かったので、もしや黒くなってないかな〜、
 期待通り黒かったです。
 女将さん曰く「最近雨が多かったからねぇ。」
 (大出館にも高尾の湯(女湯内湯)があります)

 さて、入浴後、見に行こうとするも、橋がありません。
 女将さん「何度も流されたので、もう橋はかけないことにしたのよ、立派な碑を作ったんだけどねぇ」
 幻のスポットとなってしまいました。

   

高尾の湯】

<いちど二どきて 高尾の湯 三たび見かわす 玉の肌 漾太郎>
 
 元泉館「高尾の湯」入口左の漾太郎氏筆の木板です。
 温泉情緒が増します。
 高尾の湯は、エメラルドグリーン、緑っぽい白濁、白濁、まれに黒湯。まれに黒湯の時の画像です。

     

お湯泉さま】

<湯花咲かせて お湯泉さまは 新湯繁盛を 眺めぐさ 漾太郎>

 新湯の渓雲閣に泉漾太郎氏の民謡碑があります。

    

小松屋商店】

<ことし またきて朝倉でんぶ つきぬ塩原 やまの味>

 小松屋商店の暖簾です。頭をつなげると「こまつや」となります。
 特産の朝倉でんぷを販売。
 ここ数年、臨時休業の札がかかり暖簾が出ていません。
 那須塩原市商工会のサイトには「暖簾」が掲げられている画像があります。

 昔の広告を見ると、「和洋洗濯 小松や洗濯部 毎朝店員御用奉伺候」
 洗濯も営業していたのがうかがえます。

    

 2020年5月まで休業(2019年9月時点)

   

片葉の芦】

<月に宿かす片葉の芦の葉にも涙の露が浮く>

 片葉の芦の伝説を歌にしたもので、源三窟下の駐車場脇にあります。
 「これは片葉の芦の夜露を涙の露と表現し片思いの情をあらわした悲愛なる歌である。
 作者は塩原町名誉町民であり、栃木県文化協会長であった詩人故泉漾太郎氏である。」(案内板)

 新しい案内板に付け替えられ、説明内容が改められています。

 源三洞の片葉の葦の説明板では、片葉の葦は、螢ヶ谷に生ずる芦としていますが、
 明治・大正の温泉本では精進川に生ずる芦としています。
 蛍が谷は精進川と水質が違い、魚が多く泳いでいます。

   

螢ヶ谷

 片葉の芦の碑の横を流れるのが螢ヶ谷です。
 明治・大正の温泉本には螢の名勝として紹介されています。
 那須塩原別邸前の露天風呂を流れていきます。
 源泉遺産那須塩原別邸の浴室に向かう橋は、螢ヶ谷をイメージしているのかも。
 露天風呂からの渓谷美は見事です。ロビーからは渓谷に滝が流れ落ちてきています。
 ※源泉遺産那須塩原別邸(旧紀州鉄道那須塩原温泉ホテル)源泉「紀州鉄道塩原温泉源泉」

    

   
 
尾頭峠】

<草鞋紐締め尾頭峠 越えた祖父母を偲ぶ道 八十翁 泉漾太郎>

 国道400号の尾頭トンネルに向かうヘアピンカーブの誉山橋の手前の公園に、
 尾頭峠の由来が掲げられた「尾頭峠記念碑」の最後に添えられています。

 「尾頭峠は会津地方と塩原を結ぶ重要な産業道路であった。
  戊辰戦争でも、会津藩援軍・・・、
  道は峻険にして狭路、馬、駕籠の通行も辛く不便難儀なり。
  又、近世文学ではこの峠を紹介した森田草平、長塚節、大岡昇平などの作品が残されている。」
  昭和63年秋、長年の願いであった尾頭トンネルが開通し、
  会津地方への往来が大変便利になったが、
  かつてこの難所の峠越をした先人達が今、
  世にあれば感無量であろう。」
  最後に「草鞋紐締め尾頭峠 越えた祖父母を偲ぶ道 八十翁 泉漾太郎」の歌が添えられています。

渡辺美智雄先生の像】

 向こう側に胸像が見えます。
 故渡辺美智雄衆議院議員の胸像で、泉漾太郎栃木県文化会会長の撰文です。

     

【日塩もみじライン】 エーデルワイススキー場手前

横川信夫先生之像>

 鶏頂山見晴園地に、栃木県元知事、栃木県観光協会元会長の横川信夫氏(故人)の顕彰碑。
 撰文は泉漾太郎氏です。
 (見晴園地ですが、見晴スキー場のように、地名だと思うので、
  ここからの展望は、何も見えません。)

     


泉漾太郎 顕彰詩碑/雨情歌碑】 茨城県北茨木市
 
<常陸磯原観海亭の 雲恨雨情の苔むす石に 雨情しのばす 名残り花> 漾太郎(平成15年建立)

 大北川河口のコミュニティーセンターの敷地に、
 詩人泉漾太郎(本名:田代太平)と雨情の詩碑が並んで建っています。
 「遠く朝日は 海よりのぼり 千里奥山 夜があける」雨情(昭和30年建立)

 雨情の名は漢詩の「雲恨雨情」から採っています。
 碑の裏には、
 「野口雨情を敬愛された泉漾太郎翁は・・(略)・・
  昭和20年先生の没後その忌日1月27日には必ず墓参のため
  この地を訪れ先生の生家に敬意を表されること50年 一度たりと休まれたことがない・・・」
 協賛者に野口雨情のお孫さん「野口不二子」さんのお名前も刻まれています。

    

【漾太郎 磯原小唄の碑】 茨城県北茨城市磯原町磯原200

<松の梢の 三日月さまよ 船頭小唄を 歌っていたりゃ 天妃山とて 露しぼる> 漾太郎

 としまや月の浜の湯の駐車場に、泉漾太郎の碑があります。
 野口雨情記念館で見た掲示によると、磯原小唄第5節についてのもので、平成元年建立とあります。

    


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