【野口雨情/栃木】
○ 高塩家(ヒロの生家) さくら市喜連川
○ レン光院(梅のお寺) さくら市喜連川
○ 雨情詩碑 道の駅きつれがわ
○ 雨情民謡詩 さくら市ミュージアム
○ 文学亭の碑 和泉屋旅館
○ 野口雨情の歌碑 黒磯郷土資料館
○ 長峰の唄 矢板市長峰公園
○ 野口雨情旧居 宇都宮市鶴田町
○ 野口雨情民謡碑 宇都宮市
興禅寺
○ ヤマト写真館「七つの子」 鹿沼市
【野口雨情/福島】
○ 雨情/いわき市常磐湯本町 福島県常磐湯本温泉
○ 野口雨情記念湯本温泉童謡館 福島県常磐湯本温泉
【野口雨情/東京】
○ 野口雨情詩歌碑 墨田区向島
○ きみちゃん像 港区麻布十番
○ 赤い靴の女の子モデル(佐野きみ)像 青山霊園管理事務所
○ 赤い靴の女の子・佐野きみ墓 青山霊園
○ 「十五夜お月さん」碑 目黒不動尊
【野口雨情/神奈川】
○ 赤い靴はいてた女の子の像 山下公園内
【野口雨情/磯原】(別頁)
○ 雨情歌碑/泉漾太郎顕彰詩碑 北茨城市磯原
○ 野口雨情磯原詩碑 北茨城市太平洋
○ 野口雨情生家資料館 北茨城市磯原
○ 野口雨情墓 北茨城市磯原
○ としまや月浜の湯 北茨城市磯原町磯原
・磯原鉱泉/長寿水
・音羽時雨顕彰碑
・磯原小唄/温泉噴出の碑
・先代と先々代の碑
・磯原節
・烈公詠碑
○ 北茨城市歴史民族資料館(野口雨情記念館)
・野口雨情の像
・磯原小唄
・かもめの碑
○ 通りゃんせの像 北茨城市磯原町磯原
【関連】
○ 泉漾太郎の民謡碑(別頁)
野口雨情 明治15(1882)年5月29日〜昭和20(1945)年1月27日
バス停留所(台町下)の前は、野口雨情と結婚したヒロの生家の高塩家です。
「たかしお薬局」の看板がありますが、薬局は閉店しています。
もとゆの正面から斜めにのぼるとレン光院(レン:玉編に連)。
境内入って左手に、野口雨情の詩碑(2009年)があります。
野口雨情は1904(明治37)年に喜連川の高塩ひろと結婚(婚姻届1905年)、
1905(明治38)年3月19日に、ひろと共に喜連川を訪れ
「梅のお寺」(詩)を作ったのがレン光院です。
「雨降りお月さん雲の蔭お馬にゆられてぬれてゆく」
詩碑は雨情直筆の色紙を写したもので、ひろ夫人の生家である高塩武一氏から寄贈されたものです。
道の駅きつれがわのロータリーにあります。
<展示写真>
展示写真には、ヒロも写っています。
「さむいはすたよ 高原颪 小雪交りて吹きおろす」
さくら市ミュージアム前庭に野口雨情の詩碑があります(2010/1/22設置)。
詩は、雨情が1935年1月22日、氏家の平野屋旅館(現岡村建設)で、画帳に書いたものです。
「誰れと別れか福渡あたり 啼いて夜半ゆく川千鳥 和泉屋にて 雨情」(昭和60年建立)
「和泉屋旅館」別館文学亭の脇にある野口雨情の民謡碑です。
和泉屋第14代主人泉漾太郎氏は雨情の弟子で、そのため雨情は度々塩原を訪れています。
民謡詩には次のような逸話が残っています。塩原商工会の旧サイトより以下引用。
「夜明け間近、漾太郎氏は雨情に起こされ「今鳴いているのは何の鳥でやんしょ。」と聞かれ、
とっさに「川千鳥」と答えてしまいました。
後日、専門家に確認したところ「アカショウビン」ということがわかり、
早速お詫びの手紙を書いたところ、
「川千鳥は渡り鳥かも知れませんから塩原へ湯治に行くこともありましょう。」
というほほえましい返事が返って来たということです。」
※北茨城市磯原に、野口雨情の墓があり、和泉屋のブログに以下のコメントがあります。
「墓碑銘『野口雨情墓』の文字は和泉屋先代・詩人の泉漾太郎が書いたものです。」
<和泉屋>の独特の文字は、雨情の直筆字を使っています。
「こん/\お啼き那須野の原のこん/\きつね」(昭和54年建立)
那須塩原市教育委員会の掲示より、
「野口雨情の歌碑
野口雨情(1882-1945年)は、「七つの子」、「赤い靴」などを作詩し、
三木露風、山田耕作などとともに明治・大正期を代表する詩人である。
雨情は、作詩に励むだけでなく、児童教育のあり方にも目を向け、
情操教育の一環として童謡の普及に尽力した。
この提唱は教育界にも共感を呼び、各地の研究集会などに招かれて講演をして廻った。
この歌碑の歌は、大正11年(1922年)に鍋掛尋常高等小学校(現鍋掛小学校)で
講演を行った際に詠まれたものである。
鍋掛尋常高等小学校で校長を務めていた故村上三千三宅に野口雨情直筆の
この歌の書が永らく保管されていた。
後年、三千三氏の子息源太郎氏と懇意であった金澤知正黒磯ロータリークラブ会長がこの話を聞きつけ、
国際ロータリークラブ75周年の記念事業として建立したものである。
なお、宇都宮市、矢板市、塩原町にも歌碑が残されているなど、栃木県との縁は深い。
碑文 こん/\お啼き那須野乃原のこん/\きつね 雨情
那須塩原市教育委員会」
「矢板長峰初夏頃にや紅いつゝしの花が咲く」(昭和53年建立)
長峰公園の中央に野口雨情の歌碑があります。
「詩人野口雨情ここにて眠る」
「雨情茶屋離れ」(野口雨情旧居)は、国と栃木県の指定文化財です。
雨情茶屋は「乙女屋鶴田雨情店」(2008年4月11日open)となっています。
「野口雨情詩碑」が鹿沼街道の道路向こうにあります。
「野口雨情 永眠の地」の標柱と、「あの町 この町」の詩が刻まれた碑があります。
鹿沼街道と宮環の陸橋は「宮環・雨情陸橋」と命名されています。
野口雨情の次女が、こちらに嫁いだ縁によって建立。
説明板
「野口雨情
明治・大正・昭和の三時代にわたり、詩、童謡、新民謡の分野に大きな業績を残した野口雨情は、
北原白秋 西条八十とともに童謡・新民謡詩人の三巨匠の一人と呼称された。
北茨城市に生まれ、昭和十八年宇都宮市鶴田町に疎開のため移り住み、
昭和二十年一月二十七日永眠しました。(享年六十三歳)
当店との所以は雨情の次女(千穂子)が縁あって昭和二十四年に嫁いで来、
平成六年三月に新店舗落成の記念に詩碑を建立しました。
ヤマト写真館」
雨情はヒロとの間に一男二女、つるとの間に二男七女をもうけました。
次女(五女)千穂子さんは、大正14年2月のお生まれです。
野口雨情は大正4年(1915)33歳の時から大正7年まで、湯本を生活の場とします。
大正4年(1915)5月、ヒロ夫人は、協議離婚を届出、実家(栃木県喜連川)へ帰ります。
大正4年6月、雨情は2人の子を連れ、湯本の芸妓置屋柏屋女将(明村まち)方で暮らします。
三函座の並びの家(平成17年取り壊し)で暮らしていた時は帳簿付け、付け馬、女衒をしていました。
三函座は白石菓子店の横の路地を入った先にありました。平成25(2013)年3月に取り壊されました。
大正7年(1918)に置屋柏屋の女将(明村まち)と別れ、
喜連川から磯原の野口家に戻ったひろに長男雅夫、二女の美晴子を託し、
単身水戸に出て、茨城県下妻町の中里家の長女つると結婚します。
(柏屋に出入りしていた旅館みよし野の娘中里つる 半玉 ←未確認)
大正9年(1920)9月、ヒロが子供を養育するため磯原の野口家に戻り長男雅夫の母として入籍します。
昭和18年、ヒロは野口家に復籍します。
磯原の野口家に野口雨情の墓、小平霊園に雨情とつる夫人の墓があります。
<野口雨情記念湯本温泉童謡館> いわき市常磐湯本町三函204 0246-44-0500 9:00-17:00 無料
言問団子の向かいの隅田公園に野口雨情詩歌碑があります。
「序詞 野口雨情
都鳥さへ 夜長のころは 水に歌書く 夢も見る」
「立札
都鳥さえ夜長のころは水に歌書く夢も見る
ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和八年門下生の
詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。
昭和六十三年十月九日 墨田区」
「『赤い靴』にまつわるイメージをモチーフとして、幾つかの像が作られています。
麻布十番商店街は1989年2月28日、パティオ十番に『きみちゃん像』(佐々木至作)
を建てました。
岩崎きみの最期を看取った孤児院が、
麻布の鳥居坂教会(跡地は、現在の十番稲荷神社)に在ったからです。」
(麻生十番商店街サイトから引用))
青山霊園の鳥居坂教会の墓地に、赤い靴はいてた女の子のモデルの佐野きみちゃんの墓があります。
東京都青山葬儀場の向かって右にある歩道からの東2入口階段(先に同じく東2入口階段あり)を上ると、
青山霊園案内図の看板、そのすぐ裏が、鳥居坂教会の墓地です(青山霊園東1地区、墓所地番12-22-2)。
墓誌に「佐野きみ」の名前が刻まれています。
東京都青山霊園管理事務所の玄関入って右手に、赤い靴の女の子モデル(佐野きみ)像があります。
事務所が開いている時にしか見ることはできませんが、事務所は正月以外開いています。
横浜山下公園『赤い靴はいてた女の子の像』(1979)。
赤い靴を愛する市民の会(後に赤い靴記念文化事業団と改称)寄贈。