○雨情歌碑/泉漾太郎顕彰詩碑 北茨城市磯原
○野口雨情磯原詩碑 北茨城市太平洋
○野口雨情生家資料館 北茨城市磯原
○野口雨情墓 北茨城市磯原
○としまや月浜の湯 北茨城市磯原町磯原
・磯原鉱泉/長寿水
・音羽時雨顕彰碑
・磯原小唄/温泉噴出の碑
・先代と先々代の碑
・磯原節
・烈公詠碑
○北茨城市歴史民族資料館(野口雨情記念館)
・野口雨情の像
・磯原小唄
・かもめの碑
○通りゃんせの像 北茨城市磯原町磯原
天妃山/弟橘媛神社
○ 天妃山/弟橘媛神社
○ 西山公お腰掛石
○ 吉田松陰遊歴記念碑
詩人泉漾太郎(本名:田代太平)と雨情の詩碑が並んで建っています。
「遠く朝日は 海よりのぼり 千里奥山 夜があける」雨情(昭和30年建立)
「常陸磯原観海亭の 雲恨雨情の苔むす石に 雨情しのばす 名残り花」漾太郎(平成15年建立)
雨情の名は漢詩の「雲恨雨情」から採っています。
碑の裏には、
「野口雨情を敬愛された泉漾太郎翁は・・(略)・・昭和20年先生の没後
その忌日1月27日には必ず墓参のためこの地を訪れ先生の生家に敬意を
表されること50年 一度たりと休まれたことがない・・・」
協賛者に野口雨情のお孫さん「野口不二子」さんのお名前も刻まれています。
海の中に碑が見えます。
地震で40cmほど沈んだそうです(野口雨情記念館で聞いた話)。
「松に松風 磯原は 小磯の蔭にも 波か打つ」
(建立:昭和26年7月 建立者:磯原雨情会 刻書:野口雨情直筆)
「観海亭」とも呼ばれた野口雨情の生家です。参観できます。
生家を守る雨情の孫、野口不二子さんに説明・対応していただけます。
ヒロの晩年の写真がありました。嫁入り時の帯の展示あり。
「雨情の命日は、毎年欠かさず墓参に来られ、ありがたいことです」など、
泉漾太郎氏のことをお伺いしました。
国道6号線、廃墟のパチスロ店の脇の道に入ります。
道路沿に「雨情先生」の石碑があります。
「昭和廿三年一月廿七日 雨情」と側面に刻まれています。
ガードをくぐった先の墓の森の中に、野口雨情墓があります。
最初に見える墓地ではなく、その先に、入口があります。
1回目は雨情生家で場所をお聞きして、墓参を目指しましたが、
野口家のお墓がたくさんあり、わかりませんでした。
最初に見える墓地の中を捜して、ないものは見つけられず、
再訪して見つけました。
指導標「(指の矢印) 雨情先生墓 之より上る」が入り口の階段にあります。
雨情墓地の指導標の建設費の寄付者芳名が「烈公詠碑」の裏面に記されています。
野口雨情墓に到着です。
側面に「泉漾太郎述書」とあります。
和泉屋のブログに以下のコメントがあります。
「墓碑銘『野口雨情墓』の文字は和泉屋先代・詩人の泉漾太郎が書いたものです。」
<源泉名「としまや月浜の湯」>
「磯原鉱泉 長寿水
この水は昭和六年に噴水し以来磯原鉱泉として紹介され
当館二代目年之介翁と親交深かった野口雨情先生によってこの鉱泉は
磯原小唄の五番目に唄われて・・・(以下省略) 」
硫黄の白い湯花が成長していて、硫黄臭の良い湯ですね。
宿の玄関脇にあります。解説文付です。
としまや月浜の湯、庭園に磯原小唄歌碑があります。
「磯原小唄 野口雨情
わたしや心は火よりもあつい
来れば来るほど温泉の
湯ではなけれどさめやせぬ
泉漾太郎恭書」
最後に「泉漾太郎恭書」とあります。
<磯原温泉発祥の由来>(宿ホームページより)
昭和六年、当館先代「渡邊年之介」が天妃山の麓に井戸を掘ったところ、
軒先高く温泉(硫黄泉)が噴き上げました。
翌年その旨を親友の「野口雨情」に伝えたところ、
その温泉を磯原小唄で紹介し、
広く世に知られるところとなりました。」
としまやの先代と先々代の肖像碑。
先代は渡辺力氏、先々代は渡辺年之介氏。
先々代は、野口雨情と同級生で幼なじみ。
「磯原節
末の松並 東は海よ 吹いてくれるな潮風よ
風に吹かれりゃ 松の葉さへも オヤ
こぼれ松葉に なって落ちる
野口雨情 作 藤井清水 曲
時雨音羽書」
昭和51年建立の碑
「四のとき 咲きて変らぬ浪の華 ながめ徒せぬ 磯原の里
詠は烈公 徳川宗敬先生書 」(昭和33年建立)
徳川斉昭(烈公)が天保4年(1833)8月24日に領内巡視のため、
野口友二郎(雨情の曾祖父)家に立ら寄った時に、磯原を詠んだ歌です。
1階が野口雨情の展示で、2階に風船爆弾の展示などがあります。
記念館前庭にある野口雨情の像。
「天妃山から ハ 東をネ
東を見れば テモヤレコラサ
見えはしないが 見えたなら
あれはアメリカ チョイト 合衆国
野口雨情詩 藤井清水曲 高木東六書」(昭和56年)
「かもーめ とんだとんだ とんだ
この曲は雨情先生の詩に作曲した「かもめ」というわたしの作品です
いま雨情先生の歌碑を書く幸運にめぐまれたことを泌々と感じています
昭和56年1月 高木東六しるす」
<リニューアルオープン>2019年4月21日
改装・休館から、2019年4月21日リニューアルオープン。
「この像は、昭和35年5月5日国道舗装の完成を祝って建てられた。
二ツ島という風光明媚の地に、往き交う人々の旅情をなぐさめてくれればと念じつつ建立され、
当時、野口雨情詩「あの町この町」からヒントを得てつくられたこの二人の童が、
通りゃんせのポーズをしているところから、
いつとはなしに「通りゃんせ」の像として親しまれるようになった。
題名も作者名も不明のまま路傍の彫刻として放置されていたが、
道往く人々の幸せと交通の安全祈願し、昭和45年・建立十周年を記念して、
「通りゃんせの像・山崎猛作」と命名された。北茨城市」(説明板より)