Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 平家塚等

  ○ 平家塚/平家塚園地  塩原門前
  ○ 平家塚/平家塚神社  川俣温泉
  ○ 平家杉        上栗山温泉
  ○ 平家塚/愛宕山神社  川俣湖温泉
  ○ 平家塚等       湯西川温泉
  ○ 黄金橋        川治温泉
  ○ 芹沢薬師堂      日光市三衣


平家塚 平家塚園地(塩原門前 妙雲寺)

 妙雲寺の平家塚園地に、「平家塚」と「飛来沢 法喜川」碑があります。

<平家塚>
 栃木にある4カ所の平家塚の中でも必見かと思います。

<飛来沢 法喜川の記>
  以下、碑の内容です。
 「寿永の昔 京都より宇都宮に逃れた平貞能力と妙雲禅尼一行は高原山中釈迦ケ岳をへて
  暫く上塩原小滝尾頭峠麓の仏沢にある仏岩付近に仮り住いして
  時折月夜ヶ丘に登っては塩原の地形を見渡し永住の適地を探し求めていましたが
  遂に仲秋明月の夜、寺山吐月峰下の霊地をえらんで妙雲寺開創しました。
  その折奉持してきた釈迦如来の霊像が仏沢よりこの地まで飛び来つたので
  誰ゆうことなくこの沢を飛来沢(現平井沢)と名づけ
  村民は釈迦如来を信仰し仏法に歓喜したので寺前の川を法喜川(源箒川)と呼んだとゆう古い伝承がある
  昭和56年夏 妙雲廿三世 憲宗識」

    
 
     


平家塚/平家塚神社 川俣温泉

 奥鬼怒荘(閉館)の先、渓山荘の手前の橋を渡り、鬼怒川沿いの柵に沿って、
 墓地を過ぎ進むと寂しい場所に平家塚があります。
 鎮魂の小社(平家塚神社)が建っています。

 「村人の間では、見れば「目が腐る」、さわれば「手が腐る」、登れば「足が腐る」と
 言い伝えられ、誰もが側に寄ることを恐れた塚です。

 盗掘にあっているそうですが、
 腐りまくり伝説のため調査をしようにも、畏れ多いとのことで川俣の住民の了解を得られず
 調査はできずにこれまで経過しているようです。

 辺りは散策遊歩道で、休憩舎がありますが、散策している人はいません。
 鬼怒川沿いの柵は、所々壊れ、修理もされずビニールテープやロープで代用しています。
 寂れたところです。

     

     

    

    


愛宕山神社/大将塚(平家塚) 川俣湖温泉

 川俣湖の愛宕山神社のところに、バス停は川俣平家塚ですが大将塚があります。
 教育委員会でもよくわかっていないので
 「大将塚と呼ばれる墳丘(行人塚か?)」(案内板)と記載されています。

     

     

   

    


平家塚等 湯西川温泉

<平家塚>

 大将塚とも。平家の里の入口の横にあります。

    

   

平清盛公の木・平重盛公の木>

 平家の里の前の駐車場の奥に、栗山森林公園(日光市管理)があります。
 公園内に、樹齢800年の栗の巨木が2本あります。
 手前が平清盛公、奥が平重盛公のご神木。

 説明は真新しい板です。
 清盛や重盛とは関係はなく、平家落人伝説関連で命名しているのだと思います。
 年数経つと、重盛公や清盛公ゆかりの栗の木という伝説になるかもしれません。

 ※樹齢800年について
  湯西川村は、天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めの際、日光山衆徒が北条氏に加担、出兵し、
  秀吉の怒りをかって焼き討ちにあい、村は焼亡しています。
  大木は燃えて残っていないのでは?
  樹齢800年の日本一大きな大井沢のクリの木の幹周りと比べると、
  清盛は半分よりちょっと太く、重盛は半分以下です。
  両木の樹齢800年は、伝承によるものでしょう。

     

平家夫婦石>

 金井旅館から湯前橋を渡ると、慈光寺の門前に夫婦石があります。

    

平家鏡岩>

 川戸地区共同湯(廃止)手前の旧道川沿いの岩が平家鏡岩です。
 川戸地区にあるので、平家落人ではなく安倍の落人に本来は由来していると思いますが。
 新道が整備され、旧道にあるので、関心を寄せる人はほとんどいなくなるでしょう。

    

 水没していませんが、旧道も高く整備されたので、鏡石の下が隠れて以前ほどの迫力はありません。

    

平家落人民俗資料館> 日光市湯西川620

  

平家狩人村> 日光市湯西川1658

 平家狩人(またぎ)村、ベニヤ板に休業の掲示が出ています。
 休業というより、冬期休業からそのまま閉館した雰囲気です(2018年夏)。

     

     

 プロパンの容器が撤去されていたので、復活はないかと思います。
  

 入口の道路がチェーンで封鎖されました(2019年5月確認)。復活の余地はなくなりました。
  


黄金橋(こがねばし) 川治温泉 川治温泉高原−川治温泉滝

 南平山(なんだいらさん)には、平家の落人が再興を期して財宝を埋めたという伝説が残っており、
 橋の名前の由来となっています。ちなみに、黄金橋の色は青です。

 説明板より
 「ここにそびえる南平山は、今から八00年ほど前の源平の合戦で敗れた
  平家の大将米沢淡路の守がこの地に逃れたが、追ってに追われ、
  財宝をこの山のどこかに埋めて逃れたといわれており、
  財宝の埋蔵場所をときあかす鍵として
  「朝日さし 夕日輝くこの丘に 黄金千杯、漆千杯」
  なる歌が伝えられており今なおロマンにみちています。」

     

     

     

     


芹沢薬師堂 日光市芹沢

 目にご利益がある薬師堂に、湯西川の薬師堂川俣の薬師堂、芹沢の薬師堂があります。

 芹沢の薬師堂は、ご本尊を見ると、目がつぶれるという伝説があり、
 厨子は開帳しないこととされてきました。

 川俣の平家塚は見ると目がつぶれる、触ると手がくさるなどと伝えられています。
 人を内部に近づけない昔の人為的な意志があったように思えてきます。

 芹沢の薬師堂は、見てはいけないだけなので、信仰者以外に見られたら都合悪いとしたら、
 隠れキリシタンを想起しましたが、日光市文化財の説明では十字が刻されている説明はなし。

 江戸の絵師、北川子直が描いた三十六歌仙扁額が奉納されていたり、
 遠く湯西川温泉方面からも、参拝者があったといい、西川村の願主による奉献があります。
 解説では遠く湯西川とありますが、実は、湯西川平戸から三依まで旧道湯坂峠を通り三里で
 (昔は今の林道ではないルートだったのか?三里と短いのかも)、
 三依の手前の芹沢だと、湯西川温泉から峠を越えてすぐで近いです。

 異例づくしとも思える薬師堂です。

<薬師如来立像>

 薬師堂のご本尊。日光市文化財。
 見ると目がつぶれると言われてきました。
 厨子の開帳はタブーとされ、厨子は閉ざされたままでした。

<奉献 め >

 明治16年、野州塩谷郡西川村の願主から奉献された額。

<文政十三年北川子直銘三十六歌仙扁額>

 「桧材板三十六歌仙の肖像並びに代表歌一首を描いたものである。
 色彩も殆ど描かれた時のままと見られ、極めて良好に保存されてきた。
 「三十六歌仙画」「干時文政13(1830)年夏6月吉祥日 東都画師 北川子直」とあり、落款もある。
 作者北川子直については不詳の部分も多いが、「東都」は江戸を指し、
 文政13年は有名な喜多川歌麿がすでに没し2代目の時代であった。」
 (出典:日光市の指定文化財 > 芹沢薬師堂内文政十三年北川子直銘三十六歌仙扁額

     

     

  
   
   


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