Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 与謝野鉄幹と晶子 第5章   第1章 第2章 第3章 第4章

  ○ 与謝野寛(鉄幹)晶子旧居跡(終焉の地)
  ○ 旧文化学院
  ○ 与謝野寛・晶子墓


与謝野公園 杉並区南荻窪4-3-22

 与謝野公園は、与謝野夫妻の旧居の庭をイメージして整備され、入口には門柱が立てられ、
 玄関があった場所に続く通路が設けられています。
 庭には桜新品種「与謝野晶子」が植えられ、手押し式井戸が残ります。
 歌人の松平盟子らが選定した夫妻の短歌が記された14基の歌碑があります。

     

     

(説明板)
「与謝野寛(鉄幹)晶子旧居跡
 かつて、この地には与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻が、晩年を過ごした家がありました。二人は明治から昭和初期にかけて、短歌、評論、古典文学研究、詩などの分野で活躍しました。
  ※明治三十八年に鉄幹の雅号を廃し、この年より本名の寛を名のりました。
 敷地に向って左方にある門を入るとサクラ、アカシアなどがあり、砂利の通路が玄関へと続きました。玄関には、アケビの棚があり、庭には、センダンやイイギリの大木、タイサンボク、カエデ、紅白のウメ、ロウバイ、カキ、クリなどたくさんの樹木があり、青葉の季節には、外から家が見えないほどでした。ブドウ棚の下には池があり、その少し北よりには、大きな藤棚もあり、夏になると、二階の窓からは、地面は見えないほどでした。晶子は、自然のままに育てた庭木の姿を好ましく思っていたからです。秋には、ドウダンツツジの垣根が美しく紅葉し、冬には、椿の一種、ワビスケの花が咲きました。敷地内には、遙青書屋、采花荘、冬柏亭の三つの建物があり、昭和十年に寛、昭和十七年に晶子が死去した後も敷地内には遙青書屋が、昭和五十五年頃まで残っていました。その後、昭和五十七年に、土地の一部を除き、杉並区立「南荻窪中央公園」として開園しました。
 平成十九年十一月には念願でありました晶子の「詩の作りやう」の碑が地元の荻窪川南共栄会商店街により建てられました。さらに隣地の空地を取得し、与謝野夫妻ゆかりの地として再整備してほしいという強い要望があり、長きにわたる構想と地域の皆様の熱い思いを受けて、この度、名称を変更し、晶子没後七十年の節目の年に「与謝野公園」として生まれ変わりました。当時の建物や庭を再現したものではありませんが、与謝野邸の庭を訪問するような趣向として、入口には門柱を立て、玄関へと続く通路を造りました。庭には夫妻が好んだ樹木を植栽し二人が詠んだ
歌碑などを建立しました。これら様々なものから往時の雰囲気を味わっていただけることと思います。ゆっくりと与謝野邸への思いをはせて下さい。
 公園整備にあたりましては、地域の皆様や与謝野夫妻のご親族、関係者の皆様のご理解とご協力のもと、実現することができました。歌碑作成にあたりましては、松平盟子さん(歌人)、萩原茂さん、平出洸さん各氏に何万首ともいわれる二人の歌から、時代を追って恋、夫婦、子供、家のことなど、終焉の地としてふさわしい歌を、選んでいただきました。ここに、厚く感謝申し上げます。
  平成二十四年四月 杉並区」

   

(説明板)
「与謝野寛(号・鉄幹)・晶子旧居跡
 現在、公園となっているこの場所は明治・大正・昭和にわたり近代詩歌に輝くような功績を残した与謝野寛・晶子夫婦が永住の居として自ら設計し、その晩年を過ごした家の跡です。
 関東大震災の体験から、夫婦は郊外に移ることにし、当時井荻といわれたここに土地を得て、昭和二年、麹町区富士見町より引越してきました。甲州や足柄連山を眺める遙青書屋と采花荘と名づけられた二棟のこの家に、夫婦は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や植木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を夫婦は次のように描いています。

  私は独りで家から二町はなれた田圃の畔路に立ちながら、木犀と稲と水との
  香が交じり合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い
  杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。
                      『街道に送る』昭和六年 晶子

  大いなる爐の間のごとく武蔵野の 冬あたたかに暮るる一日 寛
  井荻村一人歩みて蓬生に 断たるる路の夕月夜かな 晶子

 また、この家で夫婦は歌会を催したり、『日本古典全集』の編纂や歌誌『冬柏』の編集をおこない、各地へ旅行して歌を詠み講演をしました。
 昭和十年三月二十六日、旅先の風邪から肺炎を起して入院していた寛は、晶子を始め子供達や多くの弟子達に看取られながら六十二年の生涯を閉じました。
 寛亡きあと、晶子は十一人の子女の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の『新々訳 源氏物語』の完成(昭和十四年)に心血を注ぎました。
 昭和十七年五月二十九日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に六十四年の生涯を終えました。
   平成六年三月   杉並区教育委員会」

  

(説明板)
「三つの家
 大正十二年の関東大震災を機に、大正十三年に与謝野夫妻はこの地(東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪)を借り、まもなく、その一部に洋風の家「采花荘」を建て、長男と次男を住まわせました。
 昭和二年には、与謝野一家は、晶子が自ら図面を書き、西村伊作設計による洋館に転居します。寛が、晴れた日には二階から秩父連山、富士山、箱根山脈までが遠望できるということで、「遙青書屋」と名付けました。この家は、クリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が緑色の鮮やかな二階建てのの大きな洋館でした。一階は広々とした廊下、応接間、書斎、客間用のベランダと夫妻の部屋、二階には、日本座敷が二間、階上階下に子供たちがそれぞれの好みで和風洋風の部屋を持っていたようです。そして、屋上には「鶯(山見)台」と呼ばれる物見台がありました。四男アウギュストと五男の健の二人の名前に因んで寛が名づけました。鶯のさえずりを聞いたり、遠くの山々を眺めみるという意味もありました。
 昭和四年には、晶子五十歳の賀のお祝いに弟子たちから五坪ほどの一棟が贈られ、夫妻は「冬柏亭」と名付けました。冬柏亭は六畳と三畳の二間からなり書斎や茶室として使用されました。
 「冬柏」とは、夫妻の好きだった「椿」を意味しています。現在、この「冬柏亭」は、京都の鞍馬寺に移築され、唯一現存している建物です。
      平成二十四年四月 杉並区」

   
 

<堺ブランド桜 与謝野晶子>

 1918(平成30)年12月25日に植樹された「与謝野晶子」は、
 1918(平成30)年2月20日付で(公財)日本花の会により「与謝野晶子」として品種認定された桜です。
 この桜は成長しても背丈が約2〜3mです。
 晶子は、桜を愛し、桜をうたった短歌も多数残されています。
 晶子の最後の歌集は「白桜集」と名付けらました。

    
 

<手押し式井戸>

  
 

〇「歌の作りやう」の碑

 荻窪川南共栄会が、平成19年11月に建立。

 『歌はどうして作る
  じっと観
  じっと愛し
  じっと抱きしめつつ作る
  何を
  「真実を」』

    
 

〇歌碑14基

 歌碑が14基と多いです。

    
 

 「韓山に、秋風立つや、太刀なでて、我思ふこと、無きにしもあらず。 鉄幹」『東西南北』(明治29年)

 「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 晶子」『みだれ髪』(明治34年)

 「夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬 耳ふかれけり 晶子」『舞姫』(明治39年)

 「われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子 あゝもだえの子 鉄幹」『紫』(明治34年)

     
 

 「あめつちに一人の才とおもひしは浅かりけるよ君に逢はぬ時 鉄幹」『紫』(明治34年)

 「子らの衣皆新らしく美くしき皐月一日花あやめ咲く 晶子」『佐保姫』(明治42年)

 「男をば罵る彼等子を生まず命を賭けず暇あるかな 晶子」『青海波』(明治45年)

 「大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙のながるるものを 寛」『相聞』(明治43年)

     
 

 「わが妻は藤いろごろも直雨に濡れて帰り来その姿よし 寛」『相聞』(明治43年)

 「君と行くノオトル・ダムの塔ばかり薄桃色にのこる夕ぐれ 晶子」『夏より秋へ』(大正3年)

 「身の負はん苦も五十路して尽きぬべしかくおのれこそ許したりけれ 晶子」『心の遠景』(昭和3年)

 「わが子らが白き二階の窓ごとに出だせる顔も月の色する 寛」『与謝野寛短歌全集』(昭和8年)

     
 

 「ほがらかに家の内そと物なくてガラスを透す青芝の色 寛」『与謝野寛短歌全集』(昭和8年)

 「木の間なる染井吉野の白ほどのはかなき命抱く春かな 晶子」『白桜集』(昭和17年)

   
 

「白桜集(昭和17年)」から

  


旧文化学院 千代田区神田駿河台2-5

 文化学院は、与謝野寛、晶子らによって創設され、2018(平成30)年に閉校しました。
 アーチの入口部分が保存されています。
 与謝野鉄幹の告別式は文化学院において行われました。北原白秋が弔辞を読みました。
 与謝野鉄幹・晶子と北原白秋の墓は、多磨霊園内にお互い近くにあります。

    

(プレート文)
「文化学院創立の地
1924年4月に文化学院は、西村伊作 与謝野鉄幹 与謝野晶子 石井柏亭らによってこの地に創立され、その他山田耕筰 河崎なつ 有島生馬 高浜虚子らが教鞭をとった。その後、菊池寛 川端康成 佐藤春夫ら著名な文学者もつづいて加わった。」

     
 

<瑠璃光より>(「瑠璃光」与謝野晶子著 アルス出版 大正14年)

 大正12(1923)年9月1日、関東大震災で文化学院は焼失します。
 与謝野晶子が文化学院に保管していた『新新訳源氏物語』の原稿も焼失します。
 歌集「瑠璃光」に関東大震災について多く歌われていますが、文化学院部分を抜粋します。

 「きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰
  焼けはてし彼処此処にも立ちまさり心悲しき学院の跡
  十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰
  わが心旅人よりも哀れなり焼けたるのちの駿河台行き」

    


与謝野寛・晶子墓 府中市多磨町4-628 多磨霊園 11区1種10側14番

 与謝野寛
  明治6年2月26日〜昭和10年3月26日(1873年2月26日〜1935年3月26日)

 与謝野晶子
  明治11年12月7日〜昭和17年5月29日(1878年12月7日〜1942年5月29日)

 与謝野晶子の短歌は、その土地の温泉文化遺産を踏まえた短歌で教えられること多々でした。
 ヘビースモーカーぶりもうかがえました。
 寛の短歌は晶子ほどには温泉を楽しんでなく晶子を心配する歌が印象に残ります。

 左側が寛(鉄幹)の墓。右側が晶子の墓です。
 与謝野寛の告別式では、北原白秋が弔辞を読んでいます。
 北原白秋の墓も近くにあります。

   

    
 

<歌碑2基>

 墓所入口の左右に歌碑があります。
 「知りがたき こともおほかた知りつくし 今なにを見る 大空を見る 寛」
 「皐月よし 野山のわか葉 光満ち 末も終りも なき世の如く 晶子」

   
 

<台座歌>

 大理石の台座の上に晶子の筆でお互いの歌が刻まれ献じられています。
 ・寛の墓前に晶子の歌
  「なには津に 咲く木の花の 道なれど むぐらしげりて 君が行くまで」
 ・晶子の墓前に寛の歌
  「今日もまた すぎし昔と なりたらば 並びて寝ねん 西のむさし野」