Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 与謝野鉄幹と晶子 第3章  第1章 第2章 第4章 第5章


○与謝野鉄幹・与謝野晶子の塩原旅行

 与謝野鉄幹・与謝野晶子は、明治43年11月(枕流閣丸屋に宿泊=確認されてはいない)と
 昭和9年5月(満寿家に宿泊)に塩原に来ています。

 慶応に入学した(明治43年9月)堀口大学と新詩社十余人とともに、明治43年11月5日〜6日、
 塩原に1泊します。(根拠:11月10日佐藤豊太郎宛寛書簡)

 新詩社同人や平出修(大逆事件の弁護士)一家は2泊しています。
 (根拠:森鴎外と大逆事件 高知大学学術研究報告 篠原義彦)

 宿泊は、春泥集の短歌によれば、福渡の枕流閣。
 現在の丸屋旅館は、当時「枕流閣 丸屋」の呼称でした。
 (根拠:春泥集以外に、宿泊宿の記録は残っていない)

     


○与謝野晶子の栃木旅行

 南間旅館、米屋旅館、日光レークサイドホテル、満寿屋、丸屋旅館(確認されてはいない)、あさや、山楽
 に泊まっています。
 中禅寺湖への訪問が4回と一番多いです。


○日光(中禅寺湖)

 大正15(1926)年5月17〜19日 米屋旅館に泊まる(夫妻)

 (株)米屋旅館(日光市中宮祠2482)は、2011年12月26日、破産手続きの開始決定。
 与謝野晶子・鉄幹夫婦も宿泊した歴史のある旅館でしたが、
 旅館は2004/5に取り壊され、レストランパティオだけが営業していました。

 パティオも閉館           明治時代後半の米屋旅館
   

<若山牧水も宿泊>

 若山牧水も米屋旅館に大正11(1922)年10月29日泊まっています。
 前日は、日光湯元で板屋旅館に泊まっています。
 与謝野晶子が訪れた温泉地と若山牧水が訪れた温泉地はけっこうかぶっています。

 日光中禅寺湖畔にて(大正11年10月)
 「牧水全集 第四巻」(若山牧水 改造社 昭和4(1929))より引用
 旅する若山牧水は、こんないでたちだったんですね。

  

 中禅寺湖にて
  裏山に雪の来ぬると湖岸(うみぎし)の百木(もゝき)のもみぢ散り急ぐかも
  見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸の紅葉照るなり
  みづうみを囲める四方の山脈の黒木の森は冬さびにけり
  下照るや湖辺の道に竝木なす百木のもみぢ水にかがよひ
  舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸辺のもみぢ照り匂ふ日を
  みづうみの照り澄むけふの秋の空に散りて別るる白雲の見ゆ

 若山牧水「みなかみ紀行」は、大正11(1922)4年10月14日に沼津の自宅を出発し、長野県岩村田(佐久ホテル泊)、小諸、星野温泉(泊)、嬬恋駅前の宿(泊)、草津温泉(一井旅館泊)、花敷温泉(関晴館泊)、暮坂峠、沢渡温泉(正栄館昼食)、四万温泉(田村旅館泊)、沼田(鳴滝泊)、法師温泉(長寿館泊)、笹の湯温泉(みなかみ町赤谷湖底ダム建設で沈む)、湯宿温泉(金田屋泊)、沼田(青地屋泊)、老神温泉(牧水苑泊)、丸沼(泊)、日光湯元温泉(板屋旅館泊)、中禅寺湖(米屋旅館泊)、日光(泊)、宇都宮(泊)、喜連川(泊)を経て、11月5日の夜、沼津の家に帰る24日間の旅をした時の紀行文です。
 若山牧水は、大正11(1922)年9月23日から畑毛温泉中華亭に3日ほど宿泊し、この後10月14日から「みなかみ紀行」の旅に出かけています。
 

<小林清親も宿泊?あるいは茶屋を利用?>

 最後の浮世絵師と言われる小林清親は、明治13(1880)年に日光を訪れ、その時のスケッチが
 「日本名勝図会」(明治30年)の中で、日光を題材にした作品が多いのが特徴です。
 作品「中禅寺湖」はその中の1枚ですが、赤い祠の中宮祠、桟橋で釣りをする客から推定して、
 米屋旅館から描かれている可能性が高いと思いました。
 「目に触るる物皆涼す幸の湖」は、芭蕉「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」をパロっているのでしょう。

  


○鬼怒川温泉

 昭和6(1931)年11月27日〜29日 鬼怒川温泉に遊ぶ(あさや泊)

 「夜半過ぎてホテルの塔にわが立てば鬼怒川見ゆれ薄月のもと」

 江戸時代末、滝温泉(現在のあさや)には鬼怒川の河原の中に源泉が3か所ありました。
 その源泉には、それぞれ「薬師湯」「岩の湯」「河原湯」と名前がつけられ、
 いずれにも湯小屋と板張りの1.5メートル四方位の浴槽がありました。

 晶子はあさやに泊まり、この河原湯を歌に詠んでいます。

 「方形す崩れし塔の白き跡なるやと寄れば鬼怒の河原湯」
 「浴む人渓に衣解く山かぜに一本の木の葉を捨つるごと」

  当時の河原湯          河原湯跡                あさや
    

 「草と月光」鬼怒川温泉にて

  夜半過ぎてホテルの塔にわが立てば鬼怒川見ゆれ薄月のもと
  むしろほど見晴し臺の石の床濡れつつ山の月夜となりぬ
  川上の湯突き櫓をかぎりとす薄明のいろ渓におよぶは
  葉無き目がうす紫の雪降れるけしきに見ゆる冬山の朝
  方形す崩れし塔の白き跡なるやと寄れば鬼怒の河原湯
  浴む人渓に衣解く山かぜに一本の木の葉を捨つるごと
  岩を越え岩うちくぐる苦を積みて雄鹿の川の出づる奥山
  水を越え岩に到ると胸をどる高原山を得しやうにわれ
  渓の家低く灯置けば鬼怒川に光れる魚の浮くここちする
  あいそ屋があいその串を紙に巻き暗き灯い置く板橋のもと
  山の月みどりの霧に曇りつつわが高窓の前わたるかな
  初冬の有明の月ほのじろし鬼怒のながれの水閣のうへ
  雑林の紅葉の中を車走らせたのしき日かな晴れしはつ多
  雪降りて鶏頂の峯白ければ今日起りたる山のここちす
  鶏頂のうす雪うごくここちすれ小佐越の橋吊にして
  川上をさしてはしらぬ魚も無し高原山は雪降るものを
  井川下の眞しろき鬼怒の水門はまた橋にして馬一つ行く
  川青し船上る時枯すすき裾に触れしをおもはずもがな


○日光(湯元、中禅寺湖)

 昭和7(1932)年6月10日〜12日 10日南間旅館に1泊、11日米屋旅館に1泊(夫妻)しています。

 「われの船佛の大使の水荘の前に及べるうす霧を分く」
 「うらさびし山の湯槽にあふるるや霧よりも濃く曇る温泉」

 南間旅館は、現在はおおるり山荘(2004/11/10open)となっています。
 そのおおるり山荘は、2021年8月31日をもって閉館しました。
 天皇陛下は、皇太子時代、終戦を疎開先の南間旅館で迎えています。

  旧南間ホテルの朽ち果てていく売店(2020年取り壊し)
      
 
  南間旅館の源泉小屋は残っています。
    


○新那須温泉

<昭和8(1933)年12月31日〜昭和9(1934)年1月2日>

 那須の山楽に2泊(夫妻)しています。
 この時、狭心症発作を起こし、多くの句を詠んでいます。
 

<昭和3年(1928)年以前>

 心の遠景(晶子第21集)「昭和3(1928)年6月発行」では、那須温泉を多く歌っています。
 序文でこの5年の間に、旅行先を記す中で、下野の那須も出てきます。
 狭心症発作を起こした時より前にも、昭和3年以前に、那須温泉に行っています。
 鹿の湯、大丸温泉、北温泉、八幡温泉に入り、殺生石を見たり、那須温泉神社にお参りしたことが
 歌から読みとれます。

 (以下那須温泉にて)心の遠景
  今朝過ぎし那須野に雲の厚くして秋の夕となりし山かな
  那須の湯にありとせし人はたありぬ山ははかなき世に似ざるかな
  硫黄の黄女郎花にはあらねどもそれらの岩も霧に濡れたる
  立ちこめし雲の間に残りたる薄とわれといたどりの草
  しらじらと殺生石が与へたる不思議の如く動く雲かな
  雲の紗のひろごり薄うら若しまことの賽の河原ならねば
  渓ひろく渚の如く白ければ殺生石もつめたからまし
  雲払ふわざを備へしうら若き薄に沿ひて危きを行く
  家ごとに那須の嶽ほど瓜積めり元湯の渓の片側の町
  目じるしの理髪の家は宵よりも朝寒げなり秋の湯の町
  楼に見る雲の動かず渓なるは人よりも疾く走り行くかな
  板の橋足らぬ半ば秋の水踏みて越ゆれば山がらす逃ぐ
  式内の社とおなじかしこさに老いにけるかな三つ葉楓も
  山涼し鳥の脚ほどあえかなる薄のなかを雲と歩めば
  ましぐらに那須へ進みてこし雲の匂ひもまじる花草の原
  秋の水赤土山を流るれば音のみ澄みて目に立たぬかな
  暁に山ゆきかひし白雲のしづくばかりの小き池かな
  山にあり夢もうつつも平かに足るも足らぬも無き世のやうに
  霜降れば海に変りて風立ちぬ那須野が原は秋の真昼も
  三坪ほど浦嶋草をつくりたる泉の家に路のかへらず
  那須の湯の芝居の小屋の口なども洞の如くに雲ゆききする
  家高し雲の下をば座頭笛ゆききするなり那須の湯の秋
  わが昔前座が原の草に寝て忘るる術を知らざりしかな
  草に寝るまぶたの上にありつるが飛びぬと見れば黒き羽の蝶
  雷鳥が羽変りなどするやうに山をば白く雲の包めり
  那須嶽の夕おろし立つ前座原草の枕を山のゆるさず
  前座原二町へだてて臥して云ふ言葉も通ふ山のかこめば
  前渓も北山渓も霧湧けば我身よりさへ湧くここちする
  重ならば暗き夜ともなるならん白き姿の山の夕ぎり
  夕なほ明るき山を下りくればあなぐらめきぬ温泉の町
  わが山は雲走り行く道となり冷たき窓となりにけるかな
  入りてこし夕の雲の中になほ三味線を弾く隣室の人
  軒の上烈しき霧に蜻蛉などしきりに落つれ雨音のごと
  湯の裏はかづらの花が月の色してうち掛かりしづくする山
  山の夜の雲に混りて入りし蛾のやがても鈍く這ひまはるかな
  山の蛾のよりも添ひたる障子開け那須の夜おろし迎へんとする
  雲迷ふ那須野を下に見る山の朝の日かげの美くしきかな
  こほこほとラバを敷きたる道鳴れば恐れを帯ぶるわが上の雲
  秋風に牧の仮屋と覚ゆれど母屋を浴槽に作る八幡湯
  秋風と物云ふために備はれる八幡の原の温泉ならまし
  神などのあてにすずしき手のひらへ置きしさまなる原の温泉
  霧探しいかにたどれと云ふことか北湯朝日の温泉の路
  風のごと大丸の湯の通ひなる山の男の消え去りし路
  しろがねを那須の煙の巻く時はましてはかなき朝霧と見ゆ
  朝日嶽鬼のわらはの憎からぬ角ある顔ののぞく高原
  黄金の千手のやうに女郎花立ちも咲くなり暗き渓底
  悪縁も心引くごと硫黄嗅ぎ那須の奈落の渓つたひ入る
  女郎花われもかうなど挿してこし部屋を思ひぬ元湯まで来て
  大神を与一の念じたるよりも深く念ずる時の湯の人
  山の雨石の置場を打ちしのみ止む世を知らぬ昼の三味線
  白を著て北山渓に入り立ちぬ身に沁むことのなほ足らぬごと
  霧軽し山の茶亭の白旗の重たげなるはせんすべも無し
  水桶へ薄の穂ほど水おとす峠に待ちぬ霧の晴れ間を
  橋なれど崩れし家の棟木など渡るに似たり秋の山川
  奥の湯のわれは八幡に通ひ行く今年の秋の物好きとして
  山主がしるしの柵をおくこともはかなし秋の那須の山踏
  われ知りぬ下界と雲の間なる山の温泉はなほしるし無し
  秋霧をかすかに吸へり山上の八幡の池の睡蓮のはな
  極熱の那須の元湯のあふるるも忘れて吹けり山の秋風
  宿宿の灯かげの末に珍文がおどけ語りの小屋の灯もつく
  瞽女の吹く笛に這ふなり湯煙が道の中より白く上りて
  秋のかぜ那須の七湯が雲とある暁がたにわが心吹く
  わが肩に霧ぞ加はる恋などの添へるが如く身にも沁むかな


○塩原温泉

 昭和9(1934)年5月12日 2度目の塩原訪問。満寿家に泊まる(夫婦)
 塩原での歌は鉄幹41首、昌子59首で雑誌「冬柏」(第5巻・第6号)に収められています。

 <龍化瀑二十五丈を若葉する毛欅のかこめりうへは岩山>

    

 満寿家前庭に、二人の歌碑「おしどり歌碑」が建っています。

  <今日遊ぶ高き渓間の路尽きず
   山のあらはる空のあらはる 寛 >  

  <真夜中の塩原山の冷たさを  
   仮にわが知る洞門の道 昌子 >        
                                 
    


○日光(中禅寺湖)

 昭和12(1937)年10月27日 晶子、米屋旅館に泊まる。

 「晶子鑑賞」(平野萬里)より、抜粋

 「そこばくの山の紅葉を拾ひ来て心の内に若き日帰る」

   十二年の秋の盛りに日光に遊ばれ、中禅寺湖畔に宿つた時の歌。
   この時は紅葉の歌が沢山出来てゐる。
    水色の橡の紅葉に滝の名を与へまほしくなれる渓かな
    掻き分けて橡の葉拾ふ奥山の紅葉の中に聖者もありと
   といふ様に色々の紅葉、その中には聖者のやうな橡紅葉もあつて、
   それを持ち帰つて並べて見ると雛でも飾るやうで久しく忘られた若い心が帰つて来た。
 

 「男体の秋それに似ぬ臙脂えんじ虎と云ふものありや無しや知らねど」

   紅葉の真盛りの男体山を真向正面から抒して、まるで臙脂色の虎――もしそんなものがゐたら――
   赤い斑の虎のやうだといつたのである。しかし臙脂虎とは紅をつけた虎の意味で悍婦を斥すと辞書にある。
   従つてありやなしや知らねどといふ言葉の裏には悍婦の意も自ら含まれてゐるのであらう。
   又同じ時同じ山を詠んだ歌に
    歌舞伎座の菊畑などあるやうに秋山映る湖の底
    わが閨に水明りのみ射し入れど全面朱なり男体の山
   などがあり、又戦場が原に遊んでは
    宿墨をもて立枯の木をかける外は白けし戦場が原 
    さるをがせなどいふ苔の房垂れて冷気加はる林間の秋 
   といふ様なすばらしい歌もこの時出来てゐる。


○日光(中禅寺湖)

 昭和14(1939)年5月13日 晶子、日光レークサイドホテルに泊まる。

 昭和初期日光レークサイドホテル  取り壊された湖畔の湯              解体・リッツカールトン建設中
    

 明治後半日光レークサイドホテル
  


(以下日光にて)冬柏亭集

 昭和7(1932)年6月10日〜12日、10日南間旅館に1泊、11日米屋旅館に1泊(夫妻)した時の記録でしょう。

  あぢきなし初めて見しは何谷のいづくなりけん日光の霧
  はやぶさの翅のはやさに舞ひくだる華厳の瀧の千尺の水
  二荒山雲をはなたず日も零れあめもこぼるる戦場が原
  人間の世に重なれる國ありて落ち来る如し大きなる瀧
  いはれなく青かるもののさびしけれ戦場が原湯の湖に移り
  うらさびし山の湯槽あふるるや霧よりも濃く曇る温泉
  客房と山の湖水をへだるつはみどりばめども蘆の枯原
  斧のおと船を造るか僧房の料か浴舎かあしはらのなか
  鶯の鳴けるところも霧厚し二荒のおくの夏のあけぼの
  前の山向日葵のごと頂に日かげを受けてみずうみに浮く
  くだものにまたたび呉れし法師湯の霧にあらずや白越ゆるは
  中禅寺立木佛の千の手のゆびさすところことごとく霧
  きりがちの寶荘殿の道場を持てる立木のおん菩薩かな
  われの船沸の大使の水荘のまへに及べるうす霧を分く
  二花の牡丹のごとし○(月と燕の一字)脂なる深山ざくらを船より見れば
  霧故に有りて無き身となりぬなり女貌、男體、中禅寺町
  桂、樅、毛なの林の近きをば我れに残せるみづうみの霧
  行小屋に古山伏の若しあらばらば寂しかるべきみづうみの月
  みづうみに浮く影かろし白根なる一重の花の六月の雪
  おしろいの水の流るるやうなれど是は二荒をおほひ行く霧
 

(以下日光にて)心の遠景

 心の遠景は、大正13年8月以来の歌を取捨して、昭和3年発行なので、
 夫妻が、大正15(1926)年5月17〜19日、米屋旅館に泊まった時の記録でしょう。

  しら樺の平にいたり湖の国踏み初めしここちこそすれ
  一行に絵師のまじりて山を描きわれは山のみ思はざるかな
  湖上よりいと鮮かに起りたる男體山はいただき曇る
  水のいろ二月ばかりの夕ぐれを深く保てる普陀洛の湖
  千鳥飛ぶ傘の骨ほど細く反る桂の枝を透して見れば
  雪の山湖上にありて吹く風も消しがたき火を抱きてこしかな
  まことには帆布の厚さならましと白根に置ける雪を思へる
  ふためきて板屋楓の花房をおとすゆふべの山の風かな
  峰かへで水楢の木の運びこし雲より降りぬ夕ぐれの雨
  わが心山のこころに半をば抱かせたれどなかばは反く
  強雨かな深山の鳥のもろ声に啼くかと思ふみづうみの音
  わが在るは南の湖畔桂立ち甘く苦しく雨もこそ降れ
  みづうみのくだけて散るに異らぬ雨吹きおろす半月の山
  湖に撥の手ありて雨の絃はげしく弾けりいかづちは鳴り
  人間のわが難行のはてに無し天狗は持てり宿堂坊を
  桂立つ木の間隠の湖へともし灯の矢の落ちてこしかな
  灯の見えぬあたりと人の教ふなりあはれ千手の浜を忘れじ
  旅をしてげにもと人の聞きぬべきことの外なる涙流るる
  みづうみの朝の白さに誘はれし閨の寒けれ砂原のごと
  見てあれば山の世界の暁も恋ざめのごと白けてぞ行く
  みづうみの奥に虹立ちその末に遠山なびく朝ぼらけかな
  大鳥の虹の片羽のかがやけり宿堂坊と黒檜のなかに
  虹多き湖上よ山に這ひたるはうすき緑のから松の虹
  山なれど雲井に虹の去り行けば伏したる人の如く寂しき
  湖水巻く五月を知れる雑林の臙脂とみどり枯萱と雪
  ありなしの男体山の鰭と見え女貌の峰ははかなかりけれ
  思へらくあはれ何をば防がんとわれは二荒を前にしたるや
  湖畔より足尾におよぶ楢の青白根につづく枯草の路
  五月なほをどるこころを持たぬなり女にあらじ大山桜
  水涸れて大尻橋も棧道のここちするなり朝霧のなか
  朝出でて湯元に入りし友の路これぞと見れば山おろし吹く
  馭者の鞭青き湖水を撫でつつも湯元がよひの馬車近づきぬ
  葉の出でず狸の毛ほど赤ばめる木のつづきたる山にこしかな
  水荘の口は刺木に塞ぎたり馬も娘もさげすみて行く
  新しき土となりたるから松のおち葉もさびし奥山の路
  白樺の林の清さつめたさに主人の捨てし三つの水荘
  湖に二荒の裾の大崎の臨むをきはめさびしくなりぬ
  高嶺より白樺の風流れきぬ裾野の馬車に路をゆづれば
  男體の山の割目をから松に補ふわざもはかなかりけれ
  底青き貝の光のみづうみに今船の居ずものの音無し
  かすかなる風の音にも耳立つる寂しき山の湖にして
  金色のいとかすかなるものなれど人土筆摘むみづうみの岸
  土筆つむ友にならはず目に見ても毒うつぎ程めでたからねば
  つたひ行く雲寒ければうなだるる山のホテルの石楠の垣
  わが友は立木の仏拝まずて深山木の名をならひてぞこし
  みやびかに芽生ひの桂つづきたる渚へ朱の船も寄れかし
  午後三時二荒をうつしあますなく広き湖水は憂鬱に落つ
  常磐木とから松の斑も稀にして男体の山さびしき五月
  湖がくらげのやうに光るなる怪しき国に来て泣けるかな
  みづうみに夕日の光注がるるところに遠きわが渚かな
  日を受けて輝く色も蒲の穂に過ぎず寂しき二荒山かな
  山山と湖水巴に身を組みて夜のけしきとなりにけるかな
  いただきの雲は真白き焔上げ夜ぞ明けてゆく男体の山
  山上の天明の色隈のあり千手の浜はむらさきにして
  湖の光につきて浮べどもうつつのものに遠き山なみ
  男體は枯萱色の山なれどわかき五月の雲ゆききする
  から松の淡き緑の這ひたればたのまるるかな五月の二荒
  褐色の男體山に晶玉の身もて寄るなりしら根と湖水
  うぐひすや白根のふもと湯元より友かへりこし湖の宿
  日光の奥の華厳に入る路は金色の毛の獅子に乗らまし
  白樺は皮を剥がれて痛げなり大名牟遅来ていたはり給へ
  目に見れば華厳の滝も涸れはてぬ底の方にて水の鳴れども
  山により浄く生きんと三日経れば思はん人もありぬべきかな


○栃木県以外

 若干紹介


○与謝野晶子 写真と肉声

 画像2・3枚目は、行動をよく共にしていた近江満子さんとの写真。

     

    

 以下著作の著者肖像より
 「晶子秀歌選」与謝野晶子 大東出版社出版 昭和19
 「星月夜」近江満子 冬柏発行所 昭和18
 「愛の創作 : 感想集」与謝野晶子 アルス出版 大正12
 「ニコニコ写真帖 第1輯」ニコニコ倶楽部 大正1
 「八つの夜」与謝野晶子 実業之日本社 大正3
 「与謝野晶子詩歌集」与謝野晶子 創元選書 創元社 1952

 「白桜集」与謝野晶子 改造社 昭和17 より
  

【国会図書館歴史的音源】
  与謝野晶子自作の短歌を朗読する肉声がデジタル資料化されています。
 ○ 短歌朗読(上) 作詞・実演 与謝野晶子 製作者 コロムビア 1937-01
 ○ 短歌朗読(下) 作詞・実演 与謝野晶子 製作者 コロムビア 1937-01
 ○ 自作短歌朗読  作詞・実演 与謝野晶子 制作者 コロムビア 1939-04