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 与謝野鉄幹と晶子 第1章  第2章 第3章 第4章 第5章



○春泥集(以下卅五首塩原に遊びて) 与謝野晶子 明治44年

 塩の湯、紅葉、高原山、左靱、馬車に関する句が多いです。
 塩原の歴史上の出来事・伝承や温泉について理解があると、なるほどと思います。
 句をそのまま理解しようとすると、意味不明に終わってしまうマニアックな句も多いです。
 配列が、時系列でもなく、テーマ別でもなく、配列の意図が理解できないです。



春泥集 与謝野晶子 明治44年
(以下卅五首塩原に遊びて)
 秋の日のかのまた川の桜沢けはしき峡に水のおどろく
 岩の湯は陶器のごと対岸に唯ひとつあり風な吹きそね
 あはれなる蔦の紅葉は手に枯れぬ羽団扇に似る板屋紅葉も
 前の馬車煙草のけぶり三筋立て霧ふる山の塩原に入る
 山の滝岩にかかるはしら衣に似るものながら音のおどろし
 橋築る隣にいたく古りし橋人も通はずかささぎの居る
 人きたり高原山の雷鳥の巣などを語る石の湯ぶねに
 那須の原紅葉の中の黄なる葉の大木に来て馬の息吐く
 紅硝子張りたる馬車の上すぐる那須野の原の秋のむら雨
 六番のおとりと呼べる塩の湯の少女はさびし三味を弾けども
 塩原の福渡戸のあけがたの岩より下るかづらの紅葉
 山の蔦頭にまきて岩つたふ君はをりふし水かがみしぬ
 十丈の杉の木立のなかにある枕流閣の夜の水おと
 馬車の人はりがね橋をあやふげに眺めてすぎて秋の日くれぬ
 渓づたひして来し人と水際の湯なる少女とめぐり逢ひにき
 わが馬車に紅葉は積めどあぢきなし山出づる日は急がぬものを
 心冷ゆきりぎし歩む馬車よりも危きことをかつてしながら
 めでたきは大空さへも見がたかる深山の中の砥に似たる道
 わが宿の黒ききざはし岩の湯のしろききざはし渓に並びぬ
 塩の湯の三百段のきざはしを下る目に見るたかはらの山
 塩原の小夜の河原の野立石半ぬらして山の雨晴る
 時雨ふる中にのぼるは湯どころの塩釜の靄畑下戸の靄
 箒川舟を浮けまし船底を一瞬のまにくだかせてまし
 紫のきりぎしのもと曲りゆくあたりの淀は一ひろの幅
 桟道に夕日の照れば哀れなり危きもののあからさまなる
 あかつきのかのまた川の湯の樋より紅葉の中にのぼるしら雲
 白き指なよにもの云ふ秋の夜は名所絵なども憎からぬかな
 相並び岩の上をば渡り行く中の湯の湯気塩の湯の湯気
 岩窟の湯に居て見れば皆青しかのまた川の紅葉藻の屑
 岩の上に素肌の少女来て立ちぬ湯気が描きたるまぼろしの絵か
 おほらかに思は悲し那須の野へ高原山を馬車出づる時
 髪長き人のうれひに似たる石青し男の石はましろし
 知らぬまに酒たうべたる御者ありて田舎の馬車もをかしくなりぬ
 塩原の山より出づる馬車小し那須野が原の秋霧の中
 大鏡たばこの火をばさやかにもうつす夕となりにけるかな

   



1句目
「秋の日のかのまた川の桜沢けはしき峡に水のおどろく」

 「塩原に遊びて」の初句が、いきなり桜沢とくるので、おどろきます。
 桜沢は、鹿股川(古くは角俣川)の上流部で、塩の湯よりさらに奥、塩原というか、ほとんど八方ヶ原です。

 最初にこの句が来るので、桜沢の滝目当てに、マニアックに八方ヶ原から塩原に入ったのかと思うのですが、
 後の句からは、定番の三島街道からトテ馬車で塩原入りしているのがわかります。

 また、鉄幹の「西那須野ここすぎて見る野は深しわが静かなるたましひの國」からも、
 西那須野から三島街道で塩原入りしたことがわかります。

 そして、福渡で一泊し、桜沢は2日目に訪問していることが、複数の句からわかります。

 塩の湯よりさらに奥の桜沢に行かなくても、塩の湯の手前の「紅葉が丘」が紅葉の名所で充分かと思う中、
 桜沢まで行くとは、泊まった沈流閣で名所図絵を見ているので、塩原の名瀑を見たかったのでしょう。

 5句目で、「霹靂(雷鳴)滝」を詠んでいるので、こちらは「咆哮(野獣の叫び)滝」でしょう、
 または、両瀑から桜沢が鹿股川に合流する手前までの間でしょう。

   
 名所図絵から該当部分を抜粋
 



2句目
「岩の湯は陶器のごと対岸に唯ひとつあり風な吹きそね」

 1句目が桜沢なので、塩の湯の「岩の湯」と勘違いしそうです。
 「対岸」「唯ひとつ」「風な吹きそね」と続くので、福渡の「岩の湯」だとわかります。

 塩の湯では、宿側の鹿俣川左岸に「冷の湯」「中の湯」「岩の湯」(医王の湯)と3泉あり、
 福渡の宿の箒川対岸は「岩の湯」だけ存在していました。

 塩の湯「岩の湯」は、横溢な渓谷の谷にあり、風はあっても緩やかです。
 福渡戸「岩の湯」は、箒川の上流から風がストレートに襲ってきます。
 福渡戸「岩の湯」は、新聞・雑誌を読める休息所が2階にあり、立派な施設ですが、
 風を防げるのは休息所だけ。

 湯舟に浸かっている時は良いけれども、塩原の11月5日夜ですから、寒いです。
 「風は吹くな〜」と言う気持ち、わかります。

「夜ふくれば山の湯ぶねに月ありぬわが秋痩の肩をてらして」
 鉄幹は、夜遅くに、入湯しています。
 枕流閣にお泊まりで、枕流閣の内湯だと山の湯ぶねではないし、月に照らされないので、
 宿の対岸の、福渡「岩の湯」での入湯でしょう。
 塩原旅行は1泊だったので、初日の夜のことです。

 晶子は、11句目でも岩の湯を詠んでいます。
「塩原の福渡戸のあけがたの岩より下るかづらの紅葉」
 2句目の岩の湯に入湯した時は、夜で紅葉を見ることができなかったので、
 翌朝明け方に、岩の湯に再入湯した時には紅葉を見て11句目で詠んだと推察します。

   
   昔:福渡「岩の湯」       今:福渡「岩の湯」      今:人工の穴が多く見える
 



3句目
「あはれなる蔦の紅葉は手に枯れぬ羽団扇に似る板屋紅葉も」

 3句目に紅葉を詠んでいます。場所がわかれば良いんですけれども。
 紅葉の種類は不案内で、よく理解できません。
 



4句目
「前の馬車煙草のけぶり三筋立て霧ふる山の塩原に入る」

 この句は4句目です。
 三島街道からトテ馬車で塩原入りすれば、この句が初句になると思うのですが
 不思議な配列です。時系列ではなく、配列の規則が読み取れません。
 さて、明治44年当時は、塩原軌道はまだ開通していないので、交通機関は西那須野から馬車でしょう。
 塩原に入る時、前を行くトテ馬車では3人が喫煙とのこと。
 トテ馬車は、煙草の煙の三筋が見える距離間隔での運行です。
 塩原から帰る時も、煙草に言及しており、晶子のヘビースモーカーらしさがでています。
 



5句目
「山の滝岩にかかるはしら衣に似るものながら音のおどろし」

 衣かけたように幅があって水量多い滝は色々あるし。
 奥塩の湯の桜沢で、驚くような音の滝だと、「咆哮(野獣の叫び)滝」「霹靂(雷鳴)滝」でしょう。
 大正の名所案内では、塩原七名瀑の二大瀑としています。
 霹靂瀑は「水勢は頗る激しく百反の白布風にひろがへりて、懸るに似たり」と紹介しているので、
 霹靂瀑を詠んだ句と思います。

  
 



6句目
「橋築る隣にいたく古りし橋人も通はずかささぎの居る」
 
 「紅葉ヶ岡 滝沢カネ子頌徳碑」が大正4年に建てられていて、
 明治43年当時は、塩の湯に向かうお兼道が改修中、あるいはできたてだったかも。
 お兼道ができて、馬車や人力車も通れるようになったとあるので、
 人力車も通れない古い橋が残っていたのかもしれません。
  または、左靭の古橋も浮かびましたが、ここは新しい橋ではなくトンネルを掘ったので、
 左靫は2句も詠んでいるので、違うでしょう。
 


7句目
「人きたり高原山の雷鳥の巣などを語る石の湯ぶねに」

 福渡の沈流閣(内湯)は石の湯ぶねではなかったでしょうから、
 福渡の岩の湯か、塩の湯のどちらかの湯舟。
 高原山の雷鳥の巣とあるので、塩の湯の湯舟でしょう。
 



8句目
「那須の原紅葉の中の黄なる葉の大木に来て馬の息吐く」

 塩原温泉郷の手前でしょうね。時系列に句は並んでいないようです。
 塩原に向かう行きの句と思われますので、トテ馬車を利用し、三島街道から塩原に入ったようです。

 紅葉の中の「黄なる葉の大木」とあるので、
 西那須野駅を出発して関谷までの中間地点、三島神社のイチョウの木々でしょうかね。
 晶子短歌全集では、「馬の息吐く」→「馬の息つく」となっています。
 三島神社辺りに、馬の水飲み場があったのかな。

 現在もトテ馬車は塩原を走ります。
 白雲堂を行く人力車のように、当時の写真は、人力車が多いです。

    
 



9句目
「紅硝子張りたる馬車の上すぐる那須野の原の秋のむら雨」

 窓が紅硝子ですか!なんともお洒落なトテ馬車です。
 



10句目
「六番のおとりと呼べる塩の湯の少女はさびし三味を弾けども」

 塩原温泉芸妓組合の事務所が塩釜にありました。塩釜には高尾塚があります。
 高尾太夫は吉原に行く前は、塩釜に住み、家は弟の普門が生まれ家計が苦しく、
 塩釜や塩の湯で、貝石を売って家計を助けていたとの伝えもあります。
 高尾太夫と比べたらかわいそうですね。
 塩の湯で、入浴後の休憩中のことと思います。

    
  高尾太夫の像
  大正時代に建てられた柏屋旅館「桐の湯」は、休息所が備えられた露天風呂
 



11句目
「塩原の福渡戸のあけがたの岩より下るかづらの紅葉」

 ようやく福渡が出て来ます。
 あけがたに詠んだ句の場所が福渡ですから、お泊まりは福渡だったのでしょう。
 起きてすぐに、福渡の岩の湯に入湯したのでしょう。

 新緑の頃は、湯の色と木の葉が同じ色ですが、秋だと、紅葉とのコントラストで美しかったことでしょう。
 
    
 



12句目
「山の蔦頭にまきて岩つたふ君はをりふし水かがみしぬ」

 どんな光景かよくわかりません。
 



13句目
十丈の杉の木立のなかにある枕流閣の夜の水おと」

 晶子短歌全集(昭和四年発行)(以下二十首塩原に遊びて)では、頭の表現が異なります。
おくやまの杉の木立のなかにある枕流閣の夜の水おと」
 

 <枕流閣で聞こえる「夜の水おと」とは何でしょう?>

  雨の音か?
   天狗岩を見に行った時に雨は止んでいます。鉄幹の句によれば、夜遅くには月が出ています。
  滝の音か?
   枕流閣近辺には、ここまで聞こえてくる滝は近くにはありません。
  杉の大木から落ちる水の音か?
   日中は雨が降ったとはいえ、激しい雨ではなかったので、いくら大木でも、
   水おとが聞こえるまでに水は貯えてはいなかったのでは。
  箒川の川音か?
   枕流閣の前を流れる箒川は、雨で水量が多かったと思います。
   消去法で、雨で増水していた箒川の水おとと、推定します。
 

 <枕流閣とは何でしょう?>

、 福渡の「枕流閣 丸屋」です。現在は丸屋旅館ですが、当時は「枕流閣 丸屋」と呼ばれていました。
  枕流閣で夜の水おとを聞いているので、お泊まりは福渡の丸屋旅館でしたか。
  お隣の「万翠館 満寿屋」に泊まって聞いたのなら、枕流閣に水おとの発生源がない限り、無理。
  満寿屋で、箒川の水おとを聞いていたら、「万翠館の夜の水おと」と表現したはずです。
  下図は、当時の広告です。

    
 

  昔の「塩原案内全」の写真を見ると、丸屋と隣りの満寿屋は、今よりもっと箒川の近くに立地していました。
  大木も写っています。

  古町に移転した満寿屋で確認したら、2回目の塩原訪問では福渡にあった満寿屋に泊まっていますが、
  お泊まりは1回しか確認できていないとのことです。

  明治44年発行の旅館要録(発行東京人事興信所)によれば、
  「塩原福渡戸温泉 枕流閣 丸屋」は「開業承応年間」と記載されています。
  (註:1652年-1655年 第4代将軍徳川家綱の世)
  和泉屋開業1536年より新しく、明賀屋開業1674年より古いです。

  枕流閣のご主人に、与謝野晶子がここの宿を詠っていますが、泊まられたのですかとお尋ねしたところ、
  福渡の大火ですべて燃えてしまい記録が残っていないとのこと。
  うちのことを詠んでいますねと驚かれていました。

  館主さん、元塩原町文化財審議委員で、塩原温泉郷土史研究会の会員さん。
  根掘り葉掘りの質問に造作なくお答えが返ってきて、博学で驚きます。
  法師温泉など与謝野晶子が訪れた宿には、当時の写真など記録が残されて展示されていますが
  枕流閣丸屋さんは福渡の大火で、資料も記録も失い残念です。

  (参考:戊辰戦争でことごとく焼き払われた塩原ですが、妙雲寺は焼かずに解体したと聞くところ。
      実は、幕府軍「凌霜隊」が泊まった宿が福渡の和泉屋と丸屋で、
      泉屋旅館と丸屋旅館は、焼かずに組み立てられるよう、解体したとのこと。
      (町めぐりツアーでお聞きしました。)

        

      
 

 <枕流閣で聞こえる「夜の水おと」とは何でしょう?>(補足)

  「晶子鑑賞」(平野萬里 三省堂 1949(昭和24)年7月25日初版発行)を見ていたら、
  決定打がありました。
  枕流閣は、枕には心地よい音が響いてくる宿名が込められていますが、
  晶子にとっては、箒川の水おとが、リズム感なく乱調子なので、やかましくて寝られないと!

  以下は、晶子の歌と平野萬里の解説です。

  「心経を習ひ損ねし箒川夜のかしましき枕上かな」

   心経は般若心経で門前の小僧誰も知つてゐる短いお経である。
   しかし塩原を流れる箒川の場合はこれを色即是空 空即是色と四書の連続する快い響きの代りに
   途方もない乱調子が続いて、やかましくて寝つかれないといふのである。
 

 <散歩中に、大量の蛾に襲われ悲鳴をあげる晶子>

  同じく「晶子鑑賞」に掲載されている歌がおもしろいのです。
  岩の湯へ入浴するには、枕流閣から少々歩くことになりますね。
  その途上で(体温あがった帰りに襲われたかな)蛾に襲われ悲鳴をあげた晶子、笑っちゃいます。

  「誓ふべし山の秘密を守るべし蛾よ我が路に寄り来る勿れ」

   若葉の頃塩原での歌。散歩の途上であらう余程多くの山の蛾に襲はれたらしく
   悲鳴をあげた形である。悲鳴のあげ方が人間扱ひで面白い。
   この様に何もかも人間扱ひにする。
   それを晶子さんの常套手段だとするのは当つて居ない。
   さうではなく晶子さんの神経には万有が直ちに人間として感ぜられるのである。
 



14句目
「馬車の人はりがね橋をあやふげに眺めてすぎて秋の日くれぬ」

 はりがね橋とは、吊り橋のことだと思いますが、どこでしょうかね。

 初日であれば、福渡手前の左靫の吊り橋でしょう。
 2日目であれば、馬車や人力車も通れなかった改修前にかかっていたお兼道の橋かと思いましたが、
 「秋に日くれぬ」とあるので、時間的に考えて初日来るときに眺めた、左靫の吊り橋でしょう。

 左靭の険道は、岩山の中ほどを少し削ったような所に、丸木の釣橋がかけてあるだけでした。
 1尺にも満たず(道幅が30cmもない)獣経鳥跡と呼ばれていました。
 左下は断崖絶壁、右手は覆いかぶさるほどの肩崖です。(当時の温泉案内本の記載による)

 左靫は帰りにも眺めて17句目でも詠んでいます。
 25句目では、丸木の釣橋のほかにもある桟橋のほうも詠んでいます。
 



15句目
「渓づたひして来し人と水際の湯なる少女とめぐり逢ひにき」

 どこの湯かな。塩の湯でしょうか。
 当時の案内書では、階段を下りて行くと案内されているので、
 渓伝いに来るのは一般的ではないと思います。

 渓伝いに来るんじゃない、入浴している人は驚くでしょ、
 ちゃんと料金払って、階段下りましょうよと、野暮な突っ込みを入れたくなります。

 もう一つの可能性は、渓を伝ってはるばる来るのは、名所図絵見ると、困難と言えるほど厳しい。
 現在の状況(画像3枚目)を見てもらってもわかるように、無理!
 明賀屋の露天風呂からは、柏屋旅館の露天風呂が手にとるように見えます。
 隣りの露天風呂から、ひょいとやってきたと考えます。

    
 名所図絵に描かれた塩の湯  明賀屋の露天風呂から、柏屋の露天風呂が至近  渓伝いで来るのは無理
 



16句目
「わが馬車に紅葉は積めどあぢきなし山出づる日は急がぬものを」

 出発ですね。



17句目
「心冷ゆきりぎし歩む馬車よりも危きことをかつてしながら」

 左靱のことを端的に詠んでいますが、左靱のことを知らなければ意味不明の句でしょう。

 当時は白雲洞(トンネル)ができているので左靱を通りませんが、
 それでも切岸での断崖絶壁の光景は肝が冷えたようです。
 かつて白雲洞がなかった時の左靱は、道幅30センチほどの断崖絶壁の道で、
 靱を左にかかえ直さないと先に進めないほどの危うさでした。

    
 



18句目
めでたきは大空さへも見がたかる深山の中の砥に似たる道」

 白雲洞から数十歩の、帰り道では左手に見える材木岩は、材木を並べているように見えますが、
 言いようによっては、のっぺら棒の砥石を並べているようにも見えるとも言えます。

    
 



19句目
「わが宿の黒ききざはし岩の湯のしろききざはし渓に並びぬ」

 16句目で出発し、福渡から下ったところにある左靭、白雲堂、材木岩ときて、
 いきなり想定外に塩の湯に飛びます。

 宿のきざはしと岩の湯のきざはしが鹿股川の渓流に並んでいるということで、
 福渡の岩の湯は対岸にあり、宿側に岩の湯があるのは塩の湯です。

 岩の湯は現在明賀屋が所有していますが、晶子訪問時の明治43年11月6日は、共同湯的使われ方ですから、
 塩の湯の明賀屋、柏屋、玉屋のいづれかに泊まったとは言えません。

 塩の湯で、芸者の三味線を聞いたので、入浴だけではなく明賀屋か他の宿で休憩もしたのでしょう。

     
 



20句目
「塩の湯の三百段のきざはしを下る目に見るたかはらの山」

 300段も川底へ向かって階段を降りるのは、大網温泉です。
 塩の湯は、階段数えたら、木段175段、石段16段で計191段でした。
 階段数多く、数え違いしているかもしれませんが、300段はありませんでした。
 昔は300段もあったのかもしれませんね。

 明賀屋も柏屋旅館も、今は階段に屋根がついています。
 昔も屋根はあったのかどうか、昔の温泉案内書は階段に触れていますが、屋根の有無まで書かれていません。
 晶子の句から、当時は高原山が階段降りる時に見えたのですから、屋根はなかったのでしょう。
 大網温泉は昔ながらに屋根はありません。
 晶子も高原山を見つつ、階段の数を数えながら降りたのでしょう。

 塩の湯「岩の湯」、福渡「岩の湯」と、ポイントはずさずに入湯しており温泉マニアです。

     
 



21句目
塩原の小夜の河原の野立石半ぬらして山の雨晴る」

 野立石もチェックしていますね。小夜とありますが、夜ではありません。
 「小夜の河原」(賽の河原)という固有名詞で、よくご存じで、感心します。
 野立石は今でも小夜の河原(賽の河原)にあります。
 大洪水でも動かないでしょうが、野立岩の上に茶屋がありましたが、明治時代に洪水で流されたと旧記にあります。
 小夜の河原(賽の河原)のお地蔵さんは、今は道路の上に祀られています。
 近くの龍化の滝へは、2回目の訪問時に行っています。

 野立岩を見た時には、雨は止んでいたことから、初日の福渡「岩の湯」入湯前に見物したと推定できます。

    
 



22句目
「時雨ふる中にのぼるは湯どころの塩釜の靄畑下戸の靄」

 塩釜と畑下もチェックしています。
 当時は塩釜は一番の繁華街で、畑下温泉は、常に三味線の音が響き賑わっていました。

 近くの天狗岩を見た時は、雨は止んでいたので、この句は2日目の雨が降る中での、
 福渡から塩の湯に向かう途上で詠んだ句と推定できます。

    
 



23句目
「箒川舟を浮けまし船底を一瞬のまにくだかせてまし」

 箒川は、雨で増水していたはずで、この時か、あるいはその前の洪水で、
 繋がれていた舟の底がやられていたのを見たのでしょう。
 今回の塩原旅行の行程を考えると、見た場所は、福渡〜塩釜〜畑下のどこかでしょう。
 塩湧橋の上からか、畑下とかですかね。

 塩原温泉の箒川沿いには、増水時に水が当たるような場所に、よく根を張るケヤキの大木が多く見られます。
 箒川の暴れ様を詠んだ句と推察します。
 



24句目
「紫のきりぎしのもと曲りゆくあたりの淀は一ひろの幅」

 切岸のもとで曲がっていく淀とは、真っ先に畑下の普門淵が思い浮かびます。
 普門淵は、高尾太夫の弟、普門に由来します。
 現在、普門淵にはそれを示す説明板等はないので、何かあっても良い気がします。

 晶子も宿泊宿で見た、名所図絵には「普門ケ淵」は名所として記されています。
 野立岩も見ています。

    
 



25句目
「桟道に夕日の照れば哀れなり危きもののあからさまなる」

 左靱の桟道がどういったものかを知らないと、理解不能になると思います。

 晶子がここを通ったときはトンネルの白雲洞が開通していますが
 白雲洞の脇から、使われなくなって放置された左靱の桟道が見えたはずです。
 当時の塩原温泉の案内書に、左靱の桟道の写真がありますが、左靱の険しさをよくとらえた句だと思います。

 白雲洞については、2度目に訪れた際に句を詠んでいます。
 「真夜中の塩原山の冷たさを仮にわが知る洞門の道」

     
 



26句目
「あかつきのかのまた川の湯の樋より紅葉の中にのぼるしら雲」

 いきなり、明け方の場面に飛びます。

 色々な可能性があり、悩ましい句です。
 ・鹿股川とあるので、塩の湯で詠んだ。すると塩の湯にも泊まった?
  鉄幹は11月5日〜6日の1泊だけ。新詩社同人等は2泊したので、晶子も残って塩の湯でさらに1泊?
 ・鹿股川は箒川と塩釜で合流します。
  塩釜の源泉は、高温すぎて江戸時代から蒸湯で利用されてきただけあって、
  湯煙が一番豪快です(今は蒸湯はありません)。湯煙が「しら雲」となるのは塩釜でしょう。
 ・夜は福渡で句を詠んでいます。あけがたも福渡で句を詠んでいます。
  福渡に泊まったと考えるのが自然で、明け方から温泉めぐりを開始し、
  福渡のとなりは塩釜です。あけがたに塩釜を経由して塩の湯、桜沢に行ったと考えます。
  あけがたのうちに塩の湯を通り過ぎた可能性も検討すると、お兼道からは鹿股川の湯の樋は見えません。
  樋は見ていないけど、湯煙は見えたので歌ったか。
 ・塩の湯の温泉入浴と、桜沢の滝見物をどちらが先だったか?入浴を先にすれば、この句を詠めます。
  しかし、塩の湯から帰路についたと後の句で詠んでいるので、桜沢の滝見物のほうが先でしょう。
  でも、福渡の岩の湯は2回入湯しているので、桜沢の滝見物の前後ともに、塩の湯も2回入湯したかも。

   
 



27句目
「白き指なよにもの云ふ秋の夜は名所絵なども憎からぬかな」

 昔の温泉案内書にも、名所絵が掲載されています。
 宿でも売っていたようです。

   
 



28句目
「相並び岩の上をば渡り行く中の湯の湯気塩の湯の湯気」

 「塩原温泉誌」(明治44年8月)によれば、
 塩の湯の泉源は3所「冷の湯」(泉温57度)「中の湯」(泉温73度)「岩の湯」(泉温65度)
 一番泉温が高い中の湯を最初に記しており、温泉マニアックな観察力です。

 与謝野晶子、田山花袋、曽良は、温泉マニアだなぁと思います。

   
 



29句目
「岩窟の湯に居て見れば皆青しかのまた川の紅葉藻の屑」

 岩窟の岩の湯に入って、その前を流れる鹿股川を見たことがないと、
 なんで紅葉が青い?なんで目の前が真っ青なの?と理解できない句となります。

 岩窟の湯とあるので、塩の湯の川沿いの露天風呂ですね。
 岩窟の湯につかると、岩窟なので、山の上の紅葉は見えません。
 鹿股川の川面にゆらぐ紅葉を見ることになります。

 岩窟の湯の前を流れる鹿股川は、鉱物が含まれているため、美しい青色を呈します。
 川面に映る紅葉も青く、川中の藻も青く見えることでしょう。

 塩の湯の情景を、岩窟の湯のロケーションからの鹿股川の川面を通して、見事に描いています!
 私も入浴した時の記憶が鮮明に甦ってくるので、この句、好きです!
 こんな短い文字数で、色々な要素を端的に描いた温泉レポとして秀逸です!

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 一方、旦那の与謝野寛の句です。

 「懸樋より立つ湯けぶりを二尺ほど隔てて谷に垂れしもみぢ葉」

  鹿股川の川幅が2尺で、懸樋より立つ湯煙の対岸に紅葉が垂れている光景。
  岩窟の湯に入らなければ、紅葉は見えますが、晶子の句に比べてなんか単調に感じます。

 「相抱き切崖に死ぬよろびを塩の湯に来てまたおもふ人」

  塩の湯の情景の描き方が悲しすぎます。

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 (いたずら)明賀屋さん、ごめんなさい。悪気はありません。

 「渓流に心囁やき湯の香りいく年馴染も明賀屋の風呂」脱衣所に掲げられています。
 晶子の句もあったほうが、いい雰囲気出ますよね、画像加工で、いたずらしてみました。
 
 当時は塩原を訪れる客の3分の1は塩の湯だったという賑わいだったので、
 鉄幹、晶子が塩の湯に入湯したのは、気づかれていなかったと思います。
 明賀屋さんは、鉄幹、晶子夫妻が入湯したのを知らないと思います。

 尾崎紅葉も畑下「佐野屋旅館」(現:清琴楼)に泊まっていたのを気づかれず、
 古町「米屋」に泊まった時も、最初は気づかれず粗末な食事で、
 後半は気づかれて食事が豪華になったと温泉案内書に記載されています。

     
 



30句目
「岩の上に素肌の少女来て立ちぬ湯気が描きたるまぼろしの絵か」

 福渡か?塩の湯か?
 福渡の岩の湯だと、湯気が描きたるまぼろしの絵は、箒川の吹き抜けの風で吹き飛びます。
 峡谷が横溢で、風が穏やかな、鹿股川の塩の湯でしょう。

 塩釜出身で、塩の湯に毎日のように石(貝石)を売りにきていた少女時代の高尾太夫を意識している気がします。
 塩釜の「高尾塚」は、名所絵にも記載されている名所です。名所絵には「高尾の墓」とありますが。。
 福渡から塩の湯に行く時に、高尾塚の前を通り、見ているはずです。
 高尾塚のことを直接詠むより、この句のほうが高尾太夫を想起させ、味があると思います。

「風ふけば湯ぶねの人を隔てけり大岩に立つ白き湯けぶり」
 (「鴉と雨」与謝野寛 塩原の秋(1910年作)短歌25首のうちの1句)

 旦那の与謝野寛が詠んだ句です。たぶん、同じ湯煙を見てのことと思います。
 さほど風は強くないはずで、ゆらりとした風で、湯煙が湯舟を覆ってくる光景。
 晶子の句のほうが、高尾太夫を想起させ、味わいがあります。

 高尾太夫についてはこちら参照(塩原東京
 
    
 



31句目
「おほらかに思は悲し那須の野へ高原山を馬車出づる時」

 高原山を馬車で出立なので、塩の湯を後にしたということでしょう。

 塩釜から塩の湯に向かう、お兼道は改修が終わり、
 馬車も腕車(人力車のこと)も通行できるようになったと当時の案内書に記載されています。
 
  
 



32句目
「髪長き人のうれひに似たる石青し男の石はましろし」
 
 人面石を2つ見ています。
 当時は天狗岩の下に人面石がごろごろたくさんあって、奇勝でした。
 天狗岩の下の退馬橋(別名:延命橋)の由来は、馬が奇岩に驚いて退くとの意味。
 与謝野晶子も奇岩を見て、歌にまでしたのですね。

 見に行ったけど、退馬橋は現存せず、400号のくり抜きが沢筋でした。
 付近には、驚いて退くような人面石は全くありません。

 人面石、天狗岩、野立石は、セットで見られる場所にありますが、野立岩は前日に見ているので、
 見落とした人面石は、塩の湯からの帰路で見たのでしょう。
 人面石は知らないと見落とすので、宿泊した沈流閣で名所図絵の説明を受けて知ったのでしょう。
 
  
 



33句目
「知らぬまに酒たうべたる御者ありて田舎の馬車もをかしくなりぬ」

 まぁ11月6日ですから寒いし、さもありなん。
 勝手に酒飲んでトテ馬車を運転する御者へ、ちくりと苦言。
 今の時代なら酒酔い運転で逮捕でしょう。
 



34句目
「塩原の山より出づる馬車小し那須野が原の秋霧の中」

 塩原の山より、関谷をトテ馬車が出ると、そこは那須野が原の広大な扇状地です。
 塩原軌道が関谷から西那須野まで開通したのは翌年明治45年なので、
 西那須野駅までトテ馬車で向かいます。
 那須野が原の光景を見事に描いています。描写力に感心します。

   
 



35句目
「大鏡たばこの火をばさやかにもうつす夕となりにけるかな」

 31句から、連続して帰りのトテ馬車の道中を詠んでいるので、この句も馬車の中かな。
 喫煙車両だったようですね。
 夕刻に西那須野駅に到着したようです。
 



<春泥集の足跡>

 春泥集の歌から、晶子の足跡をたどってみました。
 1人称で記述しています。
 推定なので突っ込み所多々と思いますが、否定もできないと思います。
 
 西那須野駅からトテ馬車に乗り、宿泊先の福渡温泉沈流閣へ向かいました。
 時により小雨、霧雨や霧の中でした。
 前の馬車からは煙草の煙が立ち上っていて、私も煙草を吸っていました。
 福渡の手前で、「左靭」や「材木岩」を見て、歌を詠みました。

 福渡に着いて、近くの「野立岩」や、畑下の「普門淵」とかを見て回り、歌を詠みました。
 舟底がやられた舟を見て、箒川の暴れっぷりに驚きました。
 「野立岩」とかを見ていた頃には雨は止んで、夜遅くには、月に照らされるまでの天候となりました。

 慶応に入学した(明治43年9月)堀口大学さんと新詩社十余人とともに、明治43年11月5日?6日、
 福渡「枕流閣丸屋」に1泊しました。
 旦那の寛と私は1泊で帰りましたが、新詩社同人等の方々は2泊しました。

 福渡の「岩の湯」に夜に入湯しました。
 「風吹かないでよ〜」とにかく寒かった。
 朝早く明るい時に、もう一度入浴しようと決めました。

 夜は宿のご主人の大塚倉吉さんから塩原の名所絵で観光案内を受け、名所絵を買いました
 (名所絵は販売品だから倉吉さんに買わされたと思う)。
 新詩社同人等と、卓に紅葉の葉を囲んで、杯を挙げました。
 宴会中も、増水した箒川の川音が聞こえてきます。

 翌日は、夜明けから湯めぐりを開始しました。雨が降っていました。
 最初は、泊まった枕流閣丸屋の対岸の岩の湯に再び入湯しました。
 昨夜は見えなかった紅葉が見えました。

 福渡から馬車で塩の湯へ向かいます。
 塩釜を通過する時に見た湯煙は、塩釜の名前どおり、豪快でした。

 塩釜から改修されて馬車も通れるようになった「お兼道」を行き、塩の湯に着きました。
 塩の湯での入湯よりも、滝見物を先にすることとしました
 (早速、手早く入湯してから滝見物に行った可能性もあります)。

 馬車は、今いる塩の湯までしか行けないので、そこで馬車を下り、
 歩いて(馬に乗っての可能性もあります)塩の湯から鹿股川上流の「桜沢」まで
 30丁ほど歩いていきました(3kmちょっとです)。
 桜橋から下りて「咆哮(野獣の叫び)滝」「霹靂(雷鳴)滝」を見物しました。
 枕流閣の倉吉さんから説明を受けて承知はしていましたが、思いのほか滝音が大きくて驚きました。

 滝見物の後は、塩の湯に戻って入湯しました。
 岩窟の湯の前を流れる鹿股川は、鉱物が含まれているため、美しいコバルトブルーです!
 川面に映る紅葉も青く見え、川中の藻も青い。
 川面一帯はコバルトブルーで川面上の紅葉のコントラストが絶妙な光景です。
 高尾太夫について、倉吉さんから昨夜説明を受けましたが、湯煙の中に高尾太夫の幻を見ました。
 高尾太夫は、ここで入浴客に貝石を売っていたのですね。
 旦那は同じ湯煙を見て「風ふけば湯ぶねの人を隔てけり大岩に立つ白き湯けぶり」と詠みました。

 休憩の際に芸者の芸を見たけど、高尾太夫に比べたら、まだまだだと思いました
 塩の湯から、馬車で帰路につき、帰りの馬車は、御者が勝手に酒飲んで運転するので、イヤだったです。
 帰りの馬車からは、名所図絵の説明で情報を得た、
 来る時には見落としていた天狗岩下の「人面石」を見て歌を詠みました。
 行きと帰りの馬車の中では、煙草を吸いました。

 私は、塩原に遊んで楽しかったけれども、
 旦那は「石を撫で紅葉をかざす楽しみはされども飽きぬ恋にあらねば」と詠んだように、
 私ほどには、温泉を楽しめたわけではなかったようです。



<訪問場所で分類してみた>

 <三島街道>  左靭 材木岩
  前の馬車煙草のけぶり三筋立て霧ふる山の塩原に入る
  那須の原紅葉の中の黄なる葉の大木に来て馬の息吐く
  紅硝子張りたる馬車の上すぐる那須野の原の秋のむら雨
  馬車の人はりがね橋をあやふげに眺めてすぎて秋の日くれぬ
  心冷ゆきりぎし歩む馬車よりも危きことをかつてしながら
  桟道に夕日の照れば哀れなり危きもののあからさまなる
  めでたきは大空さへも見がたかる深山の中の砥に似たる道
  知らぬまに酒たうべたる御者ありて田舎の馬車もをかしくなりぬ
  塩原の山より出づる馬車小し那須野が原の秋霧の中
  大鏡たばこの火をばさやかにもうつす夕となりにけるかな

 <福渡>  岩の湯 枕流閣 名所絵
  岩の湯は陶器のごと対岸に唯ひとつあり風な吹きそね
  あはれなる蔦の紅葉は手に枯れぬ羽団扇に似る板屋紅葉も
  塩原の福渡戸のあけがたの岩より下るかづらの紅葉
  山の蔦頭にまきて岩つたふ君はをりふし水かがみしぬ
  十丈の杉の木立のなかにある枕流閣の夜の水おと
  白き指なよにもの云ふ秋の夜は名所絵なども憎からぬかな

 <塩釜手前〜畑下>  塩釜 箒川 普門淵 野立岩 人面石
  時雨ふる中にのぼるは湯どころの塩釜の靄畑下戸の靄
  箒川舟を浮けまし船底を一瞬のまにくだかせてまし
  紫のきりぎしのもと曲りゆくあたりの淀は一ひろの幅
  塩原の小夜の河原の野立石半ぬらして山の雨晴る
  髪長き人のうれひに似たる石青し男の石はましろし

 <桜沢>  咆哮滝 霹靂滝
  秋の日のかのまた川の桜沢けはしき峡に水のおどろく
  山の滝岩にかかるはしら衣に似るものながら音のおどろし

 <塩の湯>  岩の湯(岩窟の湯) 鹿股川 幻の高尾太夫
  橋築る隣にいたく古りし橋人も通はずかささぎの居る
  人きたり高原山の雷鳥の巣などを語る石の湯ぶねに
  六番のおとりと呼べる塩の湯の少女はさびし三味を弾けども
  渓づたひして来し人と水際の湯なる少女とめぐり逢ひにき
  わが馬車に紅葉は積めどあぢきなし山出づる日は急がぬものを
  わが宿の黒ききざはし岩の湯のしろききざはし渓に並びぬ
  塩の湯の三百段のきざはしを下る目に見るたかはらの山
  相並び岩の上をば渡り行く中の湯の湯気塩の湯の湯気
  岩窟の湯に居て見れば皆青しかのまた川の紅葉藻の屑
  岩の上に素肌の少女来て立ちぬ湯気が描きたるまぼろしの絵か
  おほらかに思は悲し那須の野へ高原山を馬車出づる時
  あかつきのかのまた川の湯の樋より紅葉の中にのぼるしら雲


○参照、引用文献
 「下野鉱泉誌」佐藤房之助編  内山港三郎 明治24.9
 「小仙郷 塩原温泉紀勝」佐藤一誠(桜哉) 進運社 明32.7
 「野州塩原温泉案内」下野新聞社 明治38.7
 「塩原温泉誌」田代近三編集 宝来社 明治38.8.6(編者は福渡牧野屋館主と推察)
 「旅館要録」東京人事興信所 明治44
 「山水名勝避暑案内」 大浜六郎著 弘学館書店 明治44
 「塩原名勝旧跡の伝説」塩渓探勝会編 大正10
 「塩原温泉名所図絵」吉田初三郎 大正名所図絵社 大正11
 「春泥集」与謝野晶子 明治44年 (以下卅五首塩原に遊びて)より 
 「鴉と雨」与謝野寛 東京新詩社 大正4.8.1 塩原の秋(1910年作)短歌25首より
 「与謝野晶子歌集:与謝野晶子自選」岩波書店 昭和18
 「晶子鑑賞」平野萬里 三省堂 昭和24.7
 「与謝野寛晶子書簡集成第3巻」中、「11月10日佐藤豊太郎宛寛書簡」
 「森鴎外と大逆事件」高知大学学術研究報告 篠原義彦

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