Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 

 与謝野鉄幹と晶子 第4章   第1章 第2章 第3章 第5章 



栃木県以外若干

 各地の温泉に行っていますね、マニアックです。

  道後温泉  (愛媛県)
  名栗温泉  (埼玉県)
  伊香保温泉 (群馬県)
  四万温泉  (群馬県)
  法師温泉  (群馬県)
  湯原温泉他 (群馬県)※別ページ
  笹の湯   (群馬県)※別ページ
  霧積温泉  (群馬県)
  鹿沢温泉  (群馬県)
  湯河原温泉 (神奈川県)
  伊豆山温泉 (静岡県)
  畑毛温泉  (静岡県)
 

 温泉地以外の訪問

  松戸の丘  (千葉県)※別ページ
  大洗・那珂湊(茨城県)※別ページ



道後温泉】 愛媛県松山市

 昭和6(1931)年11月2〜4日、与謝野晶子(53歳)・鉄幹夫妻が道後温泉を訪問。
 

 <湯神社> 愛媛県松山市道後湯之町4-7

  与謝野晶子は、湯神社を訪れ、次の歌を残しています。

  「道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな」

  湯神社には歌碑はありませんが、スタンプに歌が刻まれています。

      

        

    湯神社説明   
 

 <菓匠「一泉堂」> 松山市道後湯之町6-13

  与謝野晶子は、一泉堂でお饅頭を購入。
  道後温泉のシンボル湯玉模様の焼き印が押された「玉饅頭」(登録商標)の一泉堂はなくなり、
  今は手打ちうどん「道後亭」となっています。



【 大松閣】 埼玉県飯能市名栗917-1

 与謝野鉄幹・晶子夫妻は、昭和2(1927)年と昭和4(1929)年、名栗ラジウム鉱泉を訪れています。
 晶子の歌碑はありませんが、若山牧水の歌碑があります。

     

     



伊香保温泉】

 伊香保温泉、石段の中腹には、与謝野晶子が大正9年に発表した「伊香保の街」という詩が刻まれています。

 『 「伊香保の街」  大正9年  与謝野晶子
  榛名山の一角に、段また段を成して、
  羅馬時代の野外劇場の如く、
  斜めに刻み附けられた 桟敷形の伊香保の街、
  屋根の上に屋根、部屋の上に部屋、
  すべてが温泉宿である、そして榛の若葉の光が
  柔かい緑で 街全體を濡らしてゐる。 
  街を縦に貫く本道は 雑多の店に縁どられて、
  長い長い石の階段を作り、伊香保神社の前にまで、
  Hの字を無数に積み上げて、
  殊更に建築家と繪師とを喜ばせる。 』

     

  伊香保の街は、大正9年発表。
  ネットで検索すると、たいてい大正4年発表と誤っています。
  なんと渋川市までが大正4年と誤った説明がされています。
  石段には、大正9年と正しく刻まれています。

    
 

  ※与謝晶子が初めて伊香保に遊んだのは「私の盛りの時代」と自らいわれる大正8年頃のことで、
   沢山歌が出来ている。平野万里が晶子鑑賞の中で、このように書いています。
   晶子は度々伊香保を訪れています。
   鉄幹が亡くなってからも、昭和11年春「千明」に宿泊しています。
   「伊香保山 雨に千明の傘さして 行けども時の帰るものかな」
   平野万里の晶子鑑賞でのコメントには、昭和11年春の作とありますが、
   榛名湖でのワカサギ釣りを歌っているので、冬に近い春ですね。
   昭和11年6月には、辻和歌子と伊香保を訪問。(出典は晶子書簡)
   昭和14年5月には、岡本一平、平野萬里と、伊香保で1泊。(出典は晶子書簡)
   昭和14年秋、新々訳源氏物語が完成し伊香保吟行が行はれ4〜5人で千明に宿泊。(平野萬里解説)
 

 <白桜集>(遺稿)

  伊香保遊草として、伊香保の歌が35首、収められています。
 

 <晶子鑑賞>(平野萬里)

  平野萬里による解説が付されています。伊香保の歌を抜粋すると、
 

  「雷の生るゝ熱き湯の音をかたへにしたる朝の黒髪」

    大正八年頃の春初めて伊香保に遊んだ時の作。この時は大に感興が動いたと見え秀歌が多い。
    又その時の興味が後に迄も続いてゐたらしくも思はれる。
    熱湯のふつふつ涌き上る浴室で朝の髪を梳いてゐる豊かな肉体を讃美する作で、
    浴泉の歌の多い中にも最も情熱的なものである。
 

  「麻雀の牌の象牙の厚さほど山の椿の葉に積る雪」

    この雪は伊香保の正月の雪であるが、この歌はそんなことに一切触れず、
    反つて麻雀牌に張つてある象牙の厚さを寸法として
    椿の葉に積つた山の雪の厚さを測定してそれだけで恐ろしい程の印象を与へるのである。
 

  「伊香保山雨に千明の傘さして行けども時の帰るものかは」

    十一年の春伊香保での作。丁度雨が降り出したので温泉宿千明ちぎらの番傘をさして町へ出掛け
    物聞橋の辺まで歩いて見た。所は同じでもしかし時は違ふ、過ぎ去つた時は決して帰ることは無いのである。
    この折榛名湖の氷に孔をあけ糸を垂れて若鷺を釣る珍しい遊びを試みた人があつた。
    それは 氷よりたまたま大魚釣られたり榛名の山の頂の春 と歌はれ、又
    我が背子を納めし墓の石に似てあまたは踏まず湖水の氷 といふ作も残されてゐる。
 

  「故ありて云ふに足らざるものとせぬ物聞橋へ散る木の葉かな」

    新々訳源氏物語が完成してその饗宴が上野の精養軒で開かれた。
    可なりの盛会であつた、その直後に伊香保吟行が行はれ、四五人で千明に泊つた。
    私も同行したが、平常は分らなかつた衰へが、不自由勝な旅では表面へ出て来て私の目にもとまつた。
    前の車中の話の歌が心にしみたのもその故である。
    作者が初めて伊香保に遊ばれたのは「私の盛りの時代」と自らいはれる大正八年頃の事で沢山歌が出来てゐる。
    この行は夫妻二人きりのものではなかつたか。この歌をよむとその際であらう。
    物聞橋の上で何事かあつたらしい。物聞橋は小さいあるかなきかの橋ながら、私にとつては如何でもよい唯の橋ではない。
    その時は初夏で満山潮の湧くやうであつたが、今は秋やうやく深く木の葉が散つて来る。
    さうして私は一人になつて衰へてその上に立つてゐる。
    万感交至る趣きが裏にかくれてはゐるが、表は冷静そのもので洵に心にくい限りである。
 

  感想 物聞橋へ最低3回は行っていますね。
     一番最初は大正8年頃の初夏で、鉄幹と一緒に行って物聞橋で何事かあったらしいと。
     2回目は、鉄幹が亡くなって昭和11年春に宿泊した千明で番傘を借りて物聞橋へ。
     同じ場所では鉄幹と来た時とは違う、過ぎ去った時は帰らない。
     3回目は、昭和14年秋、今は一人になって衰えて物聞橋の上に立っている。
     万感の思いが伝わってきます。



四万たむら】 群馬県中之条町四万4180
 
 与謝野晶子は大正11年と昭和9年の2回、四万温泉「賽陵館田村旅館」に宿泊。

 「月出でぬ川に迎える岩根湯の廊に裸の人あまた立ち」

 【岩根の湯】(男女内湯)
  脱衣所は洗面台1つのみの、こじんまりとしたつくり。
  岩根の湯、打たせ湯、源泉蒸風呂があります。
  湯の状態が一番良いです。
  画像はリニューアル前で、リニューアル後はウッディなつくりとなっています。

     

     
 

 (昭和9年)晶子鑑賞(平野萬里)より

 「川東中井の里は五十度の傾斜に家し爪弾きぞする」

   昭和九年の秋上州四万に遊ばれた時の作。私は四万へは行つたことがないので説明しかねるが、
   渓流に臨んだ急勾配の斜面に川東の中井部落といふのがあり、そこから爪弾きの音が聞こえて来た。
   今にも滑り落ちさうな崖の途中の様な処に住みながらいきな爪弾を楽しんでゐるとは
   如何した人達であらうと感心して居る心であらう。
   五十度の傾斜といふ新らしい観念と爪弾といふ古い情趣との対照がことに面白い。
 

 「川の幅山の高さを色ならぬ色の分けたる四万の闇かな」

   山の蛾が飛び込むので閉めてあつた障子をあけ廊へ出て九月の外気に触れて見た。
   谷底の様な四万の夜は真暗だ。しかしその色のない闇の中にも川の幅を示してゐる闇もあり、
   山の高さを現はしてゐる闇もあつて、ちやんと区分され、その上に星空が乗つてゐるのであつた。
   これだけのことが色ならぬ色の分けたるで表現されてゐる。



法師温泉 長寿館】 群馬県みなかみ町法師温泉

 貴婦人のように、駕籠に乗ってますね。当時も今も同じ建物。

  ※駕籠に乗っているのは、晶子夫人、近江夫人、高橋英子さん、兼藤紀子さんの四人でしょう。
   法師吟行では、派手な都女が加わって当時電灯さえ点かなかつた奥山を驚かしたようです。(平野萬里解説)

    
 

 <晶子鑑賞>(平野萬里)から、法師温泉の歌を抜粋すると、

 「赤谷川人流すまで量まさる越の時雨はさもあらばあれ」

   赤谷川はその源を越後境の三国峠に発して法師湯の前を流れる常時静かな渓流である。
   それが急に水量が増した。越後側に降つた時雨がどんなものであるかそんなことは考へないことにするが、
   唯この目前の水量の増し方は如何だ、一歩足を入れゝば押し流されさうだ。
 

 「その下を三国へ上る人通ひ汗取りどもを乾す屋廊かな」

   法師温泉は川原に涌くのを其の儘囲つたもので、主屋は放れた小高い処に建てられて居り、
   其の間が長い廊でつながり、廊について三国街道が走つてゐる、
   廊には昨日三国へ上つた婦人客の汗取りがずらつと干してある、
   その下を三国を経て越後へ通ふ旅人が通るのである。これも山の温泉の特殊相である。
 

 「こころみに都女を誘へりと霧のいふべき山の様かな」

   昭和六年九月の法師温泉吟行には夫人、近江夫人、高橋英子さん、兼藤紀子さんと四人の派手な都女が加はつて、
   当時電灯さへ点かなかつた奥山を驚かした。
   しかし霧の方から云へば逆で、都女を誘つたのは自分で、けふはどんな反応があるか一つためして見るのだ、
   きつと驚くに違ひないと云ひたさうに山を降りて来たのである。
 

 「先立ちて帰りし友の車中の語聞かで知るこそあはれなりけれ」

   昭和十三年の秋、笹の湯から法師温泉を廻られた時、行を共にした中に二、三先に帰つた人達があつた。
   あの人達が車中話す第一の話は何だらう、晶子先生もすつかり年をとつて弱られましたねといふのであらう。
   聴かずとも分る。その位自分は衰へてしまつた。
   ことに前にこの法師温泉へ来た頃に比べると自分ながらよく分るといふわけで、読後の感じの恐ろしい位の歌だ。
 

 「法師の湯廊を行き交ふ人の皆十年ばかりは事無かれかし」

   法師温泉は今時珍しい山の中の温泉で電灯さへない。
   温泉は赤谷川の川原を囲つたやうな原始的な作りで、長い廊下でおも家と結ばれてゐる。
   そこで湯に入る為に「廊を行き交ふ」ことになる。
   私は十余年を隔ててゆくりなくもまた法師湯に浸つた。
   しかしその間に私には一大変化が起りこのやうにやつれてしまつた。
   今日ここへ来て湯に入る人達だけは、せめてあと十年間は事の起らないよう、
   祈らずにはゐられないといふので、洵にこの作者に著しい思ひやりの深い、
   自他を区別しない温かい心情のにじみ出てゐる作である。



【金湯館】 群馬県安中市松井田町坂本1928

 温泉マニアの与謝野晶子も来ています。

 与謝野晶子とは関係ありませんが、
 「母さん僕のあの帽子どうしたでせうね?
  ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落とした、あの麦わら帽子ですよ。
  僕はあのとき、ずいぶんくやしかった。
  だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。」
 金湯館の弁当の包み紙に印刷されていたものです。

 「母さん僕のあのデジカメどうしたでせうね?
  ええ、湯舟へ落とした、あのデジカメですよ。
  僕はあのとき、ずいぶんくやしかった。
  だけど、いきなり湯舟でこけたもんだから。」
 その後、防水のデジカメを使いました。

    

    
 

 <晶子鑑賞>(平野萬里)から、霧積の歌を抜粋

 「霧積の泡盛草の俤の見ゆれど既にうら枯れぬらん」

   霧積温泉で見た泡盛草の白い花がふと目に浮んで来た。
   しかし秋も既に終らうとしてゐる今頃はとうにうら枯れてしまつたことだらう。
   蓋し凋落の秋の心持を「泡盛草」に借りて表現するものであらうか。
 

 「霧積の霧の使と逢ふほどに峠は秋の夕暮となる」

   碓氷の坂を登つてゆくと霧の国霧積山から前触れのやうに霧がやつて来て
   明るかつた天地もいつしか秋の夕暮の景色になつてしまつた。
 

 <与謝野晶子自選歌集(宿ホームページより>

  霧積の山残りなく色づきて賢愚の別なき紅葉かな ?
  北海にむかはん汽車の聲なども聞く霧つみの碓氷の峠 265
  霧積が銀のきつねの皮ごろもしたたる裾のみ見ゆる食堂 239
  霧積の泡盛草のおもかげの見ゆれどすでにうち枯れぬらん 246
  しもつけの花うはじろみ霧積の碓氷の坂に秋かぜぞ吹く 218
  はつあきの霧積やまの石の亭六方のまど霧にふさがる 219
  霧積が霧のとばりをなかば上げ来よてふごとし軽井澤町 220

  「与謝野晶子歌集:与謝野晶子自選」(岩波書店 昭和18)の原典に当たると、
  霧積がまとまっているわけではなく、以下各々からの抜粋でした。
  「森林の香」「緑階春雨」「山のしづく」
  上記数字は掲載ページです。原典の記載に改めました。



鹿沢温泉湯本 紅葉館】 群馬県嬬恋村田代681 

 鹿沢温泉は、大正七年の火災で22軒の家や宿・分校が焼失、焼失前に与謝野晶子が訪れています。
 駐車場の水力発電で、浴場と廊下の電気をまかなっています。
 男湯と女湯を仕切る壁には火を囲んで2人が踊る神話的レリーフ。

 本館は取り壊され、山小屋風なモダンな本館が新築(平成25年7月)されていますが、
 「雲井の湯」源泉使用の浴室は以前のままで、源泉温泉情緒が残されています。
 外観は取り壊し前の本館です。

    



【鹿澤館】 群馬県嬬恋村大字田代1017-58

 ※2019年台風19号により土石流入休業、2020年7月26日、解体となりました。

 昭和9年に建てられた建物で歴史を感じます。
 昭和12年秋に、与謝野晶子が宿泊しています。
 引湯源泉は、貯めることなく直接、湯船に投入、湯華が舞います。

 <村上の 千草の台の秋風を 君あらしめて聞くよしもがな>

   十二年の秋新鹿沢に遊んだ時の作。
   村上の千草の台とはその名が余りに美しいので、或は作者の命名かも知れない。
   高原の秋風のすばらしさを故人をかりて述べたもので、この歌には追懐の淋しさなどは少しも見られない。
   (「晶子鑑賞」(平野萬里)より)

    



湯河原温泉】

 「晶子鑑賞」(平野萬里 三省堂 1949(昭和24)年7月25日)から、湯河原での歌を抜粋します。
 解説を読むと、背景とかよくわかります。
 

 「蜜柑の木門かどをおほへる小菴を悲しむ家に友与へんや」

  相州吉浜の真珠荘は作者の最も親しい友人の一人有賀精君の本拠で、
  伊豆の吉田の抛書山荘と共に何囘となく行かれ、
  ここでも沢山の歌がよまれてゐる。今そこには大島を望んで先生夫妻の歌碑が立つてゐる。
  その蜜柑山に海を見る貸別荘が数棟建つてゐる。
  その一つを悲しむ為の家として私に貸しませんかと戯れた歌である。
  悲しむ家といふ表現に注意されたい。こんな一つの造句でも凡手のよく造り得る所ではない。
 

 「集りて鳴く蝉の声沸騰す草うらがれん初めなれども」

  これも吉浜での作。油蝉の大集団であらうが、蝉声沸騰すとは抒し得て余蘊がない。
  しかしこの盛な蝉の声も実は草枯れる秋の季節の訪れを立証する外の何物でもないといふので、
  一寸無常観を見せた歌である。
 

○展示会「与謝野晶子と湯河原」 ー山荘の桜こぼれて道白しー
 http://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kyoiku/library/p04138.html

 湯河原の海、桜、蜜柑そして温泉を愛した晶子。
 晶子が逗留した湯河原・真珠荘。その真珠荘を営んだ有賀家による寄贈資料と、
 県立神奈川近代文学館所蔵パネルを展示し、晶子と湯河原の深い関わりをたどります。

 会期 平成31年3月8日(金)〜17日(日) 10:00〜17:00
 会場 図書館3階会議室 入場無料
 主催 湯河原町立図書館
 共催 県立神奈川近代文学館

 展示会に行きました。貴重な資料が展示され、真珠荘のことがよくわかりました。

    
 

 <真珠荘>

  与謝野晶子は、昭和7年(1932)から平成15年(1940)まで、真珠荘に15回も訪れています。

       

      
 

  「与謝野晶子と吉浜・湯河原温泉」(湯河原町史編集委員 加藤雅喜)
  いただいた資料と、展示から、真珠荘部分を抜粋してみました。
  ・昭和 (1932)
    1月2日真珠庵に1泊。3日から5日高杉別館に2泊。
  ・昭和8(1933)
    5月15日有賀氏経営の熱海和光園に1泊。
    5月16日真珠荘に立ち寄る。
  ・昭和9(1934)
    4月2日熱海和光園1泊。
    4月3日真珠荘の桜を愛でる。
    11月24日真珠荘で蜜柑を愛でる。
  ・昭和10(1935)
    8月末真珠荘で1泊。箱根へ行き真珠荘に戻りさらに1泊。
  ・昭和11(1936)
    1月5日真珠荘で1泊。
    4月16日真珠荘の桜を見る。
  ・昭和12(1937)
    8月10日真珠荘で2泊。
    12月真珠荘に1泊。
  ・昭和13(1938)
    1月1日真珠荘へ。
    4月下旬桜の花見で訪問。
    6月10日真珠荘へ、有賀氏の勧めで中西旅館にて盲腸手術後の湯治(6月14日まで)。
    7月22日?28日中西旅館にて温泉療養。
  ・昭和14(1939)
    4月9日真珠荘1泊、大島桜を愛でる。
    12月2日真珠荘で1泊、桜紅葉と蜜柑を愛でる。
    12月3日伊豆山相模屋旅館へ。
  ・昭和15(1940)
    4月5日真珠荘で1泊。

       

      
 

 <與謝野寛・晶子連理歌碑>  湯河原町吉浜1871-1

  有賀精氏が、真珠荘の庭に、昭和18年3月26日建立。
  湯河原町の史蹟に指定されていますが、
  いただいた資料には今はその歌碑は見ることはできませんとあります。

  湯河原町のホームページに碑の所在地が記されていましたが見つけられませんでした。
  展示書籍によると、今は碑が残るのみで、真珠荘も桜の木も存在しないとのことです。
  現地で実物を見ることができなくても、碑の写真と刻まれた歌の拓を見て満足です。

  「吉浜の真珠の荘の山ざくら嶋にかさなり海にのるかな 晶子」
  「光つつ沖をいくなりいかばかりたのしき夢を載する白帆ぞ 寛」

        

     
 

 <色紙、手紙等>

       

      
 

〇湘碧山房  湯河原町吉浜1895-104

 谷崎潤一郎は、湯河原町吉浜の有賀精の宅地の一画を購入し、
 湘碧山房を建て移り住みました(昭和39(1964)年)。

 谷崎潤一郎関係の展示はありませんが、湘碧山房も見学。

 展示の地図には、
 湘竹居(谷崎潤一郎の松子婦人が住んでいた所)、あるが(廃業)、真珠荘跡、
 湘碧山房が記されていますが、この地図は正確ではないです。

    

   
 

〇高すぎ(旧中西旅館) 湯河原町宮上535 0465-62-3171

 与謝野晶子が有賀精氏の勧めで、2度の湯治をした中西旅館。
 現在は、素泊まり専門の「高すぎ」となっています。

 「高きより雨次ぎ次ぎに峰を消し 一重となりぬ湯河原の山」
 「悪僧の七つ道具の一つかと 橋こえくるを見れバ三味線」

  



伊豆山 相模屋】 静岡県熱海市伊豆山

 1921(大正10)年1月、与謝野晶子夫妻は、伊豆山の相模屋(現;ニューさがみや)に宿泊し、
 同宿の3人と、5人で、1月6日、相模屋前から船に乗って1月6日に初島を訪れ「初島紀行」を書きました。
 富士急マリンリゾート→「与謝野晶子初島紀行

  1枚目 走り湯足湯から  2枚目 伊豆山神社 本宮社から

     
 

 <ニューさがみや>(旧相模屋)

  与謝野鉄幹・晶子一行が宿泊。
  当時は「千人風呂旅館 相模屋」

  玄関横に源実朝の歌碑が建てられています。(与謝野晶子の碑ではないのね)
  「源実朝 大海の磯もとどろによする波 われて砕けてさけて散るかも」

     

      
 

 <走り湯> 熱海市伊豆山604-10

  「拍手をば わがくろ髪に 送るなり 童めきたる 伊豆の走り湯」
  「心の遠景」(与謝野晶子 1928年5月)

       



畑毛温泉 栄家】 静岡県畑毛温泉

 与謝野鉄幹・晶子は大正11(1922)年2月9日〜11日、畑毛温泉栄家(大正10年創業:現在の大仙家)に、
 平野万里、石井柏亭、高木藤太郎、只躰(誰かな?)と宿泊しています。
 出典は、寛・晶子書簡より。書簡の中では栄屋とあり、栄家でしょう。
 (同年9月には、石川啄木が中華亭に宿泊しています。)

     

 与謝野鉄幹と晶子は、書簡の中で以下の歌を記しています。

 『湯の上の糸より細き小波も圓くもつれて楽めるかな 寛』
 『湯口より遠くひかれて温泉は女の熱を失へるかな 晶子』

 晶子の歌は、草の夢に掲載されたものと、微妙に表現が違います。
 『湯口より遠く引かれて温泉は女の熱を失ひしかな』(草の夢)

 「草の夢」(大正11(1922)年)には、畑毛山温泉について、与謝野晶子の歌が27首、収められています。
 「森林太郎先生へ捧ぐ」と森鴎外への献辞があり、平野万里が序文を書いています。

 平野万里の序文には、
 「春の休みには畑毛温泉へ行った。之は私のすすめたものであったが、予期に反した。
  しかし帰りに廻った静浦はその失望を幾分癒した。」

 畑毛温泉には、平野万里は失望したみたいですが、与謝野鉄幹・晶子はそうでもなかったようです。

 「草の夢
  (以下畑毛温泉にて)
  湯口より遠く引かれて温泉は女の熱を失ひしかな
  浴室の石の床をば湯のぬるく這ひたる伊豆の如月の宿
  身一つを静かに浸す浴槽より湯流る心ほとばしるらん
  夕月と富士の雪より射る光霧にみだるる田方の郡
  伊豆の山すべて愁ひて潤むなり富士より早く春は知れども
  しら玉の富士を仄かにうつしたる足柄山の頂の雪
  山国の月見てありぬわが心いつあはれにも改まりけん
  雲ほども進まぬ馬車にわが乗りて伊豆の沼田を巡る春かな
  伊豆と云ふ温泉の国をゆきもどりすれば心も春風となる
  王朝の保元の蔦のからみたる坦庵の家おのれの心
  坦庵の邸の前の溝川に幌をうつしてわれを待つ馬車
  反射炉を二町離れて紅梅と乳牛を見る馬車の客かな
  牛ありぬ韮山川の芹の色すでに山より青き浅瀬に
  真白なる富士を削りてわれに媚ぶ春の畑毛の温泉の靄
  靄上り天城の嶺のふくらみぬ下の百山皆とろけ去り
  山の洞茂れるままの枯歯菜をつたひて落つる二月の雫
  断ち残し六尺ばかり横穴の山にあるごと忘られぬかな
  土穴の門に向ひて青を伸ぶいと新しき夢を見る麦
  二月来ぬ足柄おろし伊豆の野の藁によの尖を海へ傾け
  蛙鳴く藁によが蓋をしたれども雪解の水のやはらかに沁み
  足柄の山を後に浴む身を残れる春の雪かとぞ思ふ
  わが身をば絹の綿もてつながせて浴槽にありぬ春の夜の人
  愁ひては布さらすごとわが身をば山の泉にひたすならはし
  微風や珊瑚の色の紐たれし寛衣の人と温泉の靄
  わが前へ浮漂ひて富士の来ぬうす黄を雲の染むる夕ぐれ
  浴槽より小波つくり急ぐなり月の世界へ行く湯のやうに
  都をば出でし前夜の雨の音をりふし聞ゆ旅の心に