川俣ダム
川俣湖二本松広場
ふる里之碑
日光市川俣湖キャンプ場
川俣大橋「憩の園」
湯西川ダム
「湯西川の未来を拓く」碑
湯西川ダックツアー
湯西川ダム資料室
湯西川ダム付替県道
県道249号(湯西川〜土呂部〜黒部)
一ツ石ポケットパーク
西川神社群
水没林
西川集会所
湯西川下地区集会所
旧道川戸地区
ネズコ大木(川戸)
高房トンネル
川治ダム
万歳松
自然公園総合センター「栗山館」
大王高原キャンプ場
日向記念公園
公民館建設の碑
(参考)鬼怒川水力電気株式会社
五十里・川治・川俣・湯西川の4つのダムを総称して「鬼怒川上流ダム群」と呼ばれています。
川俣ダム 1966年(昭和41年)に完成
湯西川ダム 2012年(平成24年)に完成
川治ダム 1984年(昭和59年)に完成
五十里ダム 1956年(昭和31年)に完成
「鬼怒川上流ダム群案内図」(湯西川ダムに掲示)
案内図では、上記4つのダムのほか、
小網ダム、栗山ダム、黒部ダム、土呂部ダム、三河沢ダムが掲載されています。
川俣湖畔にある二本松広場。
川俣ダムによって沈んだ33戸の集落を後世に伝える「ふる里之碑」があります。
裏面には、移転した方々の名前が記されています。
山本勇氏(閉店した川俣湖ドライブイン)の名前もありました。
(刻まれている文字)
「 川俣は ダム建設迄戸数三十三戸よりなり歴史は平家の時代よりの古い平和な集落であった
昭和三十三年四月建設省が多目的を持って川俣ダム建設に着手 昭和四十一年九月
総工費七十八億円八年五ヶ月の大月を要し完成を見たのである
私達は永年住みなれた祖先伝来の地を離れ昭和三十五年現在地に移転をした
今ここに当時を偲び水没地川俣を眼下に見える高台に故郷を思いつつ
記念碑を建立後世に伝えるものである」
キャンプ場としては営業していませんが、トイレ、炊事場があります。
川俣大橋の両側に「憩い園」があります。
閉店した川俣湖ドライブイン、山本勇氏による碑が建っています。
「われこの湖底に育み往時を偲び碑を建つる。
平成17年3月17日 山本勇81歳 建之」
店の右手は建立物のカオス。
左手に「鳥獣供養塔」「魚の供養塔」があります。
<「湯西川の未来を拓く」碑>
湯西川ダム建設にあたって、栃木県、茨城県、千葉県、宇都宮市による
湯西川地区、西川地区住民への感謝の碑です。平成24年10月。
<湯西川ダックツアー(水陸両用バス)> 公式URL
湯西川ダム駐車場に水陸両用バスが駐車し、乗客はダム施設見学に下車したので撮影。
スクリューが付いているバスですね。
湯西川ダム建設記録と、付替道路の記録が展示されています。
外の電光掲示板は立派ですが、小さな資料室です。
○湯西川ダム付替県道(249号線)黒部西川線
湯西川ダム建設により、旧道沿の史蹟や集会所が付替道路に移設されています。
画像は、ダム湖に沈んだ旧道にあった付替道路工事説明板。
従来の山道で狭道です。落石注意の表示のところには、石が転がっていたりします。
昔、側岩にぶつかった車がレッカー移動して動くまで、追い抜けず一緒に立ち往生して難儀しました。
三河沢と橋立沢が合流して、湯西川となるところに、三河沢ダムへ行く道がありますが、常時通行禁止。
橋立沢に沿って進むと、勝訴証拠の碑。よくこんな山奥まで植林しにきていたか思うと驚きます。
山林は国有林ではなく、民有林です。
さらにすすんで、栗山舘岩線と合流しますが、全面通行止(通行できる期間のほうが短いかな)。
土呂部を経て、四季の湯のある黒部で、県道23号に合流。
湯西川ダムによって沈んだ一ツ石集落の石碑などを移設整備したのが、
「一ツ石ポケットパーク」です。
天狗岩トンネルと大岩八汐トンネルの間にあります。
天狗岩大橋から眺める水没林は、昨今では有名なようです。
「このポケットパークは、一つ石集落に生活していたみなさんが
湯西川ダム建設により先祖代々の貴重な土地を提供していただき
湯西川ダムが完成したことを記念して
代表的な石碑などを移設整備したものです。」
<なしの木>
樹齢三百年、一ツ石集落を見守ってきたなしの木です。
<水道記念碑>
<開墾記念碑>
<お天気石>
「お天気石は、左側の穴に投げた石が入ると雨が降ると言われ、
子供達はお天気石への石投げ遊びをみだりにしないよう言われていました。」
水没した一ツ石高房神社をはじめ30神仏が集団移転し、西川の高台の一カ所に集められ
2010年春で移設が終了し「西川神社群」となっています。荘厳・圧巻な光景です。
西川の住民の方が来られたので、色々とお話を聞きました。
西川集会所でお風呂管理されていた方で、お互い、お風呂を懐かしみました。
今市などへ越していった人が多く、西川集落は11軒になってしまったとのことです。
○西川九地蔵と足尾山碑(大正4年7月) ○上野の十一地蔵
○高房神社 ○太神宮 ○春日神社 ○八幡大神
○愛宕神社 ○八坂神社
○不動様 ○勝膳神(2基) ○西川山林の碑
○水道記念碑 ○山の神様
・穴田トンネルと赤下トンネルの間のオクダブリ沢から湯西川ダムを垣間見ることができます。
渇水期で、貯水が減っています。
・一ツ石大橋
大岩八汐トンネルと天狗岩トンネルの間の栗山沢にかかる一ツ岩大橋から、水没林が見えます。
・天狗岩大橋
天狗岩トンネルを抜けると「天狗岩大橋」。
水没していた道路が見えます。ガードレールはしっかり残っています。
県道に沿って電柱も姿を現しています。
水量が多いと、道路や電柱は見えません。
旧道にあった旧西川集会所は閉館、付け替え道路に新しく西川集会所ができました。
新しい集会所に温泉施設はないです。湯の郷が整備されました。
旧湯西川下地区集会所から、対岸上に立派な新しい集会所ができました。画像3枚目。
新しい集会所に温泉施設はないです。温泉施設は、水の郷が整備されました。
<星宮神社>
旧湯西川下地区集会所は解体・撤去され、道路が高くなって、星宮神社が建っています。
川戸地区手前の「むささび橋」から、旧道が見えます。
旧道にゲートが見え、行ってみると、長沢橋の先にゲートで通行止。
「むささび橋」手前の「臼の平紅葉大橋」からも、旧道が見えます。
ここは紅葉スポットです。
<若宮神社/旧仲内・平沢自治会の碑/二十三夜尊堂> 川戸地区付替道路
川戸地区の付替道路、若宮神社の境内に、旧仲内・平沢自治会の碑があります。
平成19年12月の裏面の説明によると、
湯西川ダム建設に伴い旧自治会の解散と各戸の恒久的な発展を念願し、建立と記されています。
若宮神社の横に二十三夜尊堂があります。若宮神社は新たに移転設けられていますが、
こちらは移転ではなく元々ここにあったかな?
寄付者御芳名の金額が一番多い人で拾円。鞘堂は、二十三夜信仰が盛んだった時の建立でしょう。
道路の反対側に郵便ポストがあります。旧道で見た記憶があるような気がするので、
郵便ポストも移転してきたものでしょう。
新道付け替え工事により、ネズコ大木は、移植工事でここに移動しました。
<一休像>
一休寺(京都)の一休像がオリジナルだと思いますが、微妙に違いますね。
他の一休像はこちらまとめ。
湯西川温泉街への入口のトンネルが高房トンネルです。
トンネル入口左手方面に高房神社があることから「高房トンネル」と名付けられています。
トンネル入口左手に、12単の女性が描かれています。
手に持っているのは、日輪の扇。与一扇眼を想像してしまいますけど。
出口の夫婦橋(めおとばし)から見ると、武者が描かれています。
付け替え道路には、10のトンネルと17の橋がありますが、
トンネルの出入口で何か描かれているのは、ここだけです。
第二次対戦に出兵する兵士を万歳を叫んで見送り別れた場所にあるのが万歳松。
別名を「親子別れの松」。
川治ダムに沈んでしまうため、現在地に移転復元されています。
八汐橋を渡り栗山温泉郷の看板の手前にあります。
「栗山館」は川治ダムの建設に伴い、移転者の生活再建のために戸中に建設されました。
宿泊施設などを併設した自然公園総合センターでした。総工費は約8億1,711万円。
1985(昭和60)年7月にオープン、10年余で閉館しました。
広大な駐車場は、現在は緊急時のヘリポートとなっています。
1980(昭和55)年オープンするも、廃止となっています。
大王高原荘(3階建の山荘)も閉館。
野尻にある日向記念公園。
国土交通省の案内板が公園入口にありますが、風化が激しいです。
日向地区では73世帯が水没移転等の記載があります。
公園内に水顕彰の碑と、川治ダム建設に伴う土地等協力者・関係者の名が刻まれた碑があります。
ベンチとか風化が激しいですが、日光市設置のトイレは真新しいです。
日向公民館入口ロータリーに川治ダム水源対策の歴史が刻まれた碑があります。
公民館建設について触れられています。
五十里ダムの水没から免れるため、街道沿から、地蔵岩の上に移動してきました。
案内板説明
「正面の地蔵岩上に鎮座いたします地蔵尊の云われ
1683年、M7.3の地震により男鹿川、湯西川合流点が
せき止められダムができ、150日間で周辺部落が水没しました。
また、1723年8月には、連日の暴風雨により五十里湖が
決壊し、鬼怒川下流で大洪水が発生。
この為、一万人以上が死亡する大きな被害をもたらしました。
度重なる災害からこの地を守ろうと、1745年9月に
村の守り神として地蔵尊が建立されました。
当初は岩の下の街道近くに設置されましたが
五十里ダムの建設により水没を免れるため
当所に移動したと地元の方々が伝えております。
隣には、馬頭観音が街道交通の安全を願い
村世話人により立てられています。
碑に記された意味は
「弘法大師が修行したという
言い伝えのあるこの聖地に
家内(村の)安全を願い五十里村の人たちが
延享二年(1745年)九月に立てた」
国土交通省 鬼怒川ダム総合管理事務所
五十里ダム管理支所 」
冬の時期だと、見通しがある程度ききます。
地蔵岩の横を流れる沢は「仏の沢」で、
二十三夜塔(寛政六年)と愛宕山碑(文化八年)があります。
バイパスと旧道が合流して、およそ400m先、
右斜面に小さな標識「下野街道」と「会津西街道口」の表示。
高原新田宿(こちらで記述)へ続く道です。
会津西街道口を登っていくと、旧五十里村南一里塚のテープ。
古碑が5基あります。
最奥 道祖神(文化二年)
奥 庚申供養塔(延享二年)
半壊の塔1基
中央 庚申供養塔(青面金剛彫物 天明二年)
手前 庚申供養塔(寛政四年)
道祖神は街道ではなく五十里湖に向いています。
バイパスから男鹿川へ降りていく道も続いていますが、
途中で道筋がなくなっていました。