【喜連川】
○ 喜連川宿 別頁
○ 大手門 別頁
○ 足利家歴代墓所(龍光寺) 別頁
○ 寒竹囲 別頁
○ 御用堀 別頁
○ 喜連川宿本陣/脇本陣 別頁
○ 足利氏代国朝と母の墓(レン光院)別頁
○ 野口雨情の詩碑(レン光院)別頁
○ 高塩家(ヒロの生家) 別頁
○ 雨情詩碑(道の駅) 別頁
○ 若山牧水と喜連川 別頁
○ 高塩背山 別頁
○ お丸山公園頂上部 別頁
○ 牛街道
【早乙女】
○ 早乙女坂古戦場
○ 石碑(弥五郎坂)
○ 旧奥州街道
○ 喜連川人車鐵道 別頁
【氏家】
○ 雨情民謡詩(さくら市ミュージアム)別頁
○ 勝山公園/勝山城跡
○ 高尾神社境内几号水準点
○ 大黒塚几号水準点
○ 五行川水源
【塩原】
○ 塩原古町温泉「御所の湯」 別頁
・強弓の茂氏公 別頁
【池之端】
○ 喜連川藩上屋敷跡 別頁
天文18(1549)年に、この坂で那須氏と宇都宮氏の戦が行われました。
宇都宮氏が有利でしたが、那須氏側の「鮎ヶ瀬弥五郎」が放った矢が
宇都宮氏の大将の急所をとらえ、戦況が一変し、那須氏が勝利しました。
鮎ヶ瀬弥五郎は、敵の大将を弔う石碑(市指定伝鮎ヶ瀬や五郎の墓および五輪等)
を建てたと伝わります。そこから「弥五郎坂」と呼ばれるようになりました。
(さくら市ホームページから適度に縮めました)←記載内容が消滅
弥五郎坂にある2つの石碑です。
1つは明治13(1880)年にう回路ができたことを記念する碑で、
もう1つは河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の
「阪を降りて 左右に藪あ里 栗落つる 碧」と刻まれた歌碑です。
どちらも市指定文化財です。
<きつれがわ奥州街道案内図>
お丸山にある「きつれがわ奥州街道案内図」です。
高塩背山の墓も記載されています。
<旧奥州街道>(さくら市指定文化財)
弥五郎坂の途中から山林内に入っていく旧奥州街道(市指定文化財)は、
標高差20メートルの急坂で長らく難所とされ、明治13(1880)年にう回路ができました。
落ち葉で埋め尽くされた古道です。
(参考 さくら市観光ナビ「奥州街道史跡めぐり」)
2019年6月に訪問すると、古道の舗装が見えるほどに、きれいに整備されています。
ベンチもしっかりと見え、座ることができる状況です。
舗装道路だったと今さらながら気づかされました。(車は通行止です)
<高塩背山の墓>
奥州街道古道沿に庚申塔があり、脇に墓地があります。その崎に赤い鳥居。
長い階段を登る気にならずパスしていましたが、入浴前の運動がてらに登りました。
急傾斜の苔蒸した石階段4本を登りきると(久しぶりに足がガタブル)、
境内正面に「愛宕山神社」、右手に「羽黒山神社」と2社鎮座しています。
・愛宕山神社
社号標「奉納 改修記念 愛宕神社」
・羽黒山神社
連城橋にある道標です。延享5(1748)年銘です。
説明版
「道標 「右江戸道 左下妻道」このみちしるべは、町の南端ここ葛城に残っており、
近世五大街道の一つで、江戸と奥羽をつなぐ主要道だった奥州街道の名残りを偲ばせています。」
会津藩が年貢米を江戸に輸送するために新設した奥州街道の脇街道。
さくら市の「たかつき」(蕎麦)へ行く途中に「牛街道」の表示があります。
正式名は原街道で、坂が多く馬ではなく牛を使って運ばねばならないほどの悪路なため、
牛街道とも呼ばれていました。
早乙女温泉の入口直前の国道南側に佐藤自動車工場があり、その前に大黒天が2体並んでいます。
左の石像の台座下に几号が刻まれています。
「明治時代の水準点」という標題の説明板が立っています。
奥州街道沿にある高尾神社の境内地に石碑群があります。
「水神」」「富士浅間尊」碑があります。
二十三夜塔があり、その台石裏に几号水準点があったはずですが、コンクリートに埋もれています。
平成25年5月移設の奉祠があり、震災で倒れて修復した時に埋もれたのかもしれません。
<勝山城跡>
(説明板)
「勝山城跡
勝山城は南北420m、東西370m、鬼怒川の段丘面を天然の要害にした崖端城である。鎌倉末期頃、氏家氏が築き、その後芳賀氏によって強固な防備が完成した。中世下野における、宇都宮氏一族の北方防衛の拠点であり、戦国時代では那須氏との激戦地となったが、堅牢な城で落城することはなかった。だが宇都宮氏が慶長2年(1597)豊臣秀吉の命で改易したのに伴い、あえなく廃城になった。
明治以降の城跡は、特に黒須家が私財を投じて勝山城周辺の土地を購入したことなどにより、よく遺存されていた。しかし、戦後の開発の波は勝山にも押し寄せ、文化人らによる啓蒙活動や保存運動が続けられたが、ついには本丸跡も破壊された。
しかし、これを機に本丸跡は公有地となり、初めて学術調査が行われ、大手口や土塁を復旧し、町指定史跡となった。平成5年(1993)城域内にはさくら市ミュージアムが開館し、廃城後400年を経て、勝山城は文化の拠点としてよみがえった。」
<明治時代の日本鉄道 鬼怒川橋梁 橋脚>
<日露戦役紀念碑 希典書/庚申塔>
<木造不動明王坐像>(栃木県指定文化財)
光明寺の青銅造不動明王坐像を作った時の木型である木造不動明王坐像が保存されています。
(説明板)
「栃木県指定文化財 木造 不動明王坐像
1968(昭和43)年3月12日 指定
さくら市 蔵
1759(宝暦9)年
380×296×275cm
現存する木造坐像の中で関東最大級の大きさを誇るこの像は、装身具の文様などから、光明寺の不動明王(右側写真)を鋳造する時に使った鋳型であることがわかります。一般的に鋳造後廃棄されてしまう鋳型を現在まで保存・継承しているのは、鋳造史を考える上でも大変貴重です。
また、壊すことを前提としていたため、廃材などを組み合わせて巧みに製作されているのが特徴です。それを示すように、仏像内の支柱からは使用されていない臍穴も見つかりました。平成12年の大修理の時には、木と木の継目から墨書も発見されています。この墨書から大きな鋳型を多様な木材で作り上げたことへの難しさが垣間見られます。さらに、頭部、胸部、腹前、前膊部、膝前、腕の各部分を分離できるのは、分鋳というパーツごとに鋳造を行なうためのものと推測されています。
さくら市教育委員会」
昔は鬼怒川の伏流水が各所に湧き出て、これが五行川の水源でしたが、
現在は、「市の掘用水」を水源としています。
(説明板)
「五行川水源地
五行川は氏家町北部を水源とし、真岡を経て茨城県下館で小貝川に合流する長さ55kmの川です。その水源地は長久保とされていますが、昭和初期ごろまでは、きぬ川学院のある台地の下は湿地で、そこに地下水が押上の旧信国寺の池やその周辺からも湧き水となって流れ、台地のふもとの低湿地におよび、むかしから「中荒」の地名があります。それに長久保からも湧き水が集合して五行川の水源となっていきました。
長久保村の古い神社は天神社の奥にある湯殿権現で水神と関係があり、水源地の祀られました。戦後、森林は開発され、鬼怒川の水量は減少し、地下水も枯れ、水源地の面影は見られませんが、五行川はここを出発点として氏家・高根沢・真岡地方の穀倉地帯を潤す「命の水」となっています。
押上小学校に、長久保駅のレールと駅名表示の再現モニュメント(1990年設置)があります。
<国立きぬ川学院>