【平家ゆかりの地】(別頁)
○ 平重盛・平貞能/宇都宮朝綱 墓所 本頁
○ 平家揚羽蝶/平家獅子舞(塩原)
○ 「月夜川」「仏沢」と温泉(上塩原)
○ 吐月峰/飛来沢(門前)
○ 平家塚(門前温泉、川俣温泉、川俣湖温泉、湯西川温泉)
○ 平家杉/上栗山開運の湯
○ 湯西川の平家落人伝説考
茨城県城里町は、栃木の益子町と接しており、近いです。
小松寺にある平重盛のお墓(県指定文化財)にお参り。
重盛の守本尊「木造浮彫如意輪観音像」は国重文です。
徳川斉昭(水戸藩第9代藩主)は天保14(1843)年に訪れ詠んだ歌が、
「みやこより 引きし小松の 墓なれば 千歳の末も のこるぞと見ゆ」
寺の唐門は重盛の住んでいた小松御殿の門を模しており、
大掾義幹によって建久2(1191)年に寄進されています。
平重盛の墓は、苔がむし経年で角がとれ丸みを帯びた石段を登り白雲山の中腹にあります。
一段下の左に平貞能の墓、右に重盛夫人(相応院得律禅尼)の墓もあります。
城里町の説明板
「重盛夫人は相応院という尼寺をひらいて一族の後生を祈りました。
貞能は常陸の平氏一族であった大掾義幹を頼って1182年にこの地を訪れます。」
(注:1181年から1183年までは、貞能は九州鎮圧中のはずです。
城里町の説明は矛盾している気がします。
塩原温泉郷土史研究会の調べによると、
平貞能一行は、かつて平将門の支配地であった常陸大掾を頼り、
小松寺に平重盛の念持仏といわれる如意輪観音像を安置し、
裏山の高台に平重盛の遺骨を埋葬し、病弱の得律禅尼を小松寺にお願いし、
妙雲禅尼を伴い宇都宮朝綱をたより下野国にはいったとあります。
そうすると、小松寺を訪れたのは、1183年か1184年となります。
なお、義幹は1193年に失脚しています。)
「小松内府平重盛像」(肖像 野村文紹 国立国会図書館蔵)
保延4(1138)年〜治承3年7月29日(1179年9月2日)
安善寺の地蔵堂床下が平貞能の墓とのこと(塩原温泉郷土史研究会調べ)。
文化財の正慶2(1332)年銘の板碑があります。
「安善寺創建者と伝えられる平貞能の百年忌供養として建てられたといわれている。
碑面には、右側に「其佛本願力聞名欲往生」中央に「正慶貮季癸酉三月九日」
左側に「皆悉到彼国自至不退転」と刻まれている。」(益子町文化財説明引用)
すぐ近くには源頼朝に家系を賭して貞能預かりの許可を得た宇都宮朝綱が隠棲し、
芳賀富士の山頂からは、平重盛と夫人の得律禅尼の墓が白雲山方面に望めます。
この地を平貞能が選んだのは印象深く感じます。
朝綱が源平合戦の初めに命を救ってくれた平貞能が隠棲するこの地を選んだのかもしれません。
妙雲禅尼が亡くなり、墓碑九重塔を平貞能一行は建てます。
現在のものは建て直されたもの。
墓じるしとして植えられた三本の大杉に、歴史の経過を感じます。
下からも上からも立入禁止で近寄れません。カメラのズームでしか近寄れません。
益子に宇都宮家累代の墓(県史跡)があります。
宇都宮朝綱公のお墓にお参り。
朝綱は尾羽寺(現存せず、地蔵堂のみ現存)を建立し、この地に隠棲しました。
※宇都宮朝綱の墓石は新調されたようです(写真は以前の墓石です)。